動機


いまさらながら。

どうして韓国語を学ぶのか。

というより、なんで今まで続いたのか。

よーくよく、考えてみた。

そして、何となく、分かってきた。

私は、ハングル文字の起源が好きなのだ。というと、なんじゃそれ、なのだが、ハングル文字の志が、好きなのだ。

世界史に、「訓民正音」、hunmiとして登場するハングル文字の起源。なんと私は高校時代世界史を取っていなかったので、西洋史専攻だった友人に言われるまで「訓民正音」を知らなかったのだが、文字を作る、いや、創るということは、それくらい凄いことだというのは、さすがに分かった。

みんなが文字を使えるようになるために、難しい漢字ではなく、簡単な文字を作ろう。

と、書いてしまえば簡単だが、実はとんでもないことなのである。

文字は力。

文字は、人の命を左右する。

法律も、契約書も、戸籍謄本も、お札も、身の回りにあるものの多くは、文字がなければ存在しないものだ。そして、文字が扱えなければ、読めなければ、その恩恵を受けることは出来ない。下手をすると、騙されて身ぐるみ剥がれて、命まで取られてしまうこともある。

そして、文字を自由に扱えることは、そのまま権力を有することとなる。

美しい、人の心を揺さぶる文章が書けるものは、人の上に立ち、人を導くこととなる。その典型が聖書やコーラン。最近知ったのだが、コーランは他の言語に翻訳してはいけないのだそうだ。

聖書を凌駕するような、人間の理想を凝縮したような論をぶち上げたとき、人は革命者となれる。社会の仕組みをひっくり返すことも出来る。朽ちた板塀への落書きが、幕府批判へのシンボルとなり、長く言い伝えられるようにもなる。

それもこれも、文字があってこそ、である。

だから、圧政を敷く為政者は、限りない力を持つ文字を、自分が統べるべき民が所有することを怖れる。あいつらが文字を全く読めなければどんなにか楽だろう、と、思っている。

なのに、世宗(sei)大王は、文字を自由なものにしようとした。誰でも読める、誰でも書けるものにしようとした。

それは、とてつもなく、勇気のいることなのである。

文字を読めるようになり、民衆が学問に励むようになる。知識を得ることによって国民の知的レベルが上がり、文化が花開き、人々の暮らしは更に豊かなものになる。

と、ここまではいい。

けれど、それによって民衆は知恵を付け、「ちょっと今の王様おかしいんとちゃうん」などと言い始め、あっちこっちでどのくらい王様が中途半端な政治をしているか、大王の水の清きに棲みかねて、なんて書かれたビラが撒かれたりなんかすることも、起きうるわけである。

それを、世宗大王は見越していただろうか。

おそらく、覚悟はしていただろう。

文字の自由は、言論の自由だ。文字をみんなが自由に使えるようになれば、身分がそれほど高くなくても、優秀な人材が出てくる可能性が高くなる。それは同時に、政権交代の可能性をも意味する。

それなのに、ハングル文字は出来た。女文字と呼ばれ、結局表舞台から一時姿を消すことになったものの、ただ一つ創った人たちが分かっている文字として、今に残っている。

そういう、とんでもなさが、好きなのである。

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