卵は鶏の卵である。であるから、dargxwixarを足すと、音が繋がってdargyarになるのである。

けれどつい最近まで、dargyorだと思いこんでいた。

なんでか。そっちのほうが響きが好きだったからである。

dargyarだと、gya、という音が悲鳴のようであまり綺麗ではないし、なんだか樽に入っている小ギャルのようである。

けれどdargyorならば、ころころと転がる卵のイメージが湧き上がる。gyoの方が文字が閉じて見えるから、殻の中に収まっている白身と黄身であるリウルが安定しているように感じる。

でも、やっぱり間違いは間違いである。

ハングル文字は読みやすい。ほぼ純粋な発音記号で、しかも発声するときの唇や舌の形に似せて作られているので、発音するときには逆に、文字の形を唇や舌の形にして発音すればいい。

けれど、私は日本人で母語は日本語(関西弁のネイティブ)だから、表意文字である漢字を基に作られたひらがなやカタカナに囲まれて成長し、漢字の意味だけ拾って飛ばし読みして暮らしてきた。だからどうしても、ハングル文字の中に、表される対象物の持つ意味を探してしまう。

たとえば私は、ggecを花の形をしている文字として覚えた。花の種類はスミレだ。小さいけれど濃い紫の花は、よく虫を呼び、薫りを立てる。

文字を記憶するのは、私にとっては画像を記憶することに近い。画像の持つ意味と文字の持つ意味がぴったり重なったときに初めて、私は文字を含むべき情報を含んだ「文字」として認識する、らしい。

要するに、子供なのである。

そして、映像の記憶は発音のそれよりも鮮明で、だから発音の仕方を忘れると綴りを思い出すようになってしまった。

だから、綴りはしっかり正確に覚えているのに意味がどうしても覚えられない、例えばhuorなんてのが未だにあるのだ。

どうしてhuorを覚えているのか。形が綺麗だからか。いや、そうじゃない。複雑な綴りで、これを書けると賢そうに見えるからだ。

本当に賢いのは、意味も綴りもきちんと覚えていることなのだが。

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