多さ


なるべく関わりたくないもの、したくないものの一つに、旅行がある。

私は旅行嫌いである。

あれこれ嫌いなものが多い大宮だが、旅行は今のところベストスリーに入っている。あ、ワーストか。

なんで嫌いか。いろいろ考える。そして、旅行にはあるキーワードが付き物であることに気づいた。

それは、多さである。

まずは荷物の多さ。なるべく少なくするように心がけてはいるけれど、それでも二泊するとなると二日分の衣類は必要となる。

鞄の中の衣類を取り出してクローゼットなどにしまうこと、は、ほとんどしない。ウィークリーマンションなら仕方ないが、一泊二泊なら鞄の中で上下を入れ替えるだけにする。

小さな鞄の中。けれども、きちんとしておかなければすぐ訳が分からなくなる。どこに下着があってどこにシャツがあってどこに歯ブラシがあって。あ、これはもう着たやつだから一番下に仕舞って。

ああ。面倒くさい。

家にいるときなら、自分のものはあるべき所にあって、いちいち思い出さなくても習慣的に取り出せる。それに、そういうときに限って、流しの下に大事に置いてあるあの石鹸使いたいとかあのタオルで顔拭きたいとか思うのだ。冷凍庫の餃子のことを考えたり、何年も読みかけにしてある本の背表紙を夢に見たりするのだ。厳選して持ってきたはずの靴下がシャツと色が合わなかったり、スカーフの端が解れていたり、あろうことかハンカチを忘れてきたりもしているのだ。

多いくせに、ちっとも役に立たない荷物。

家に帰ったら、全部あるのにな。クローゼットのあの辺や、タンスのあの辺に。

旅行が好きな人々は、家の中で平穏に繰り返される日常から逃れたくて、何がどこにあるか考えなくても分かっている生活から逃れたくて、旅行に出かけるのだろうか。それとも、そんなことは全部奥さんやお母さんがやってくれるから、気にしないのだろうか。

私にはあるべき所にあるべきものがある生活がすなわち快適な生活なので、逃れたくない。どっぷりひたっていたい。読むつもりのない本に、いつまでもしおりを挟んでいたい。着るつもりのないシャツにアイロンを掛けていたい。

待ち時間も多い。行列するのが、大嫌いなのである。ちゃんと並ぶし、辛抱強く待つし、割り込まれることはあっても割り込むことはしないが、なるべくなら並びたくない。なんでお金払ってまで待たされなければならないのか。ただ、行くだけなのに。乗り物に乗るだけなのに。その上、海外だと荷物の中まで見られる。

人も多い。一体これだけの人がどこまで何をしに行くんだろう。例えば、前に並んでいる、とろくさいくせにずうずうしい家族連れはどこまで行くんだ、と思ったら、最後まで同じ行程だったりする。だから、「この人はどこに行くのかな」と想像するのは、やめた。

約束事も多い。旅行会社のツアーのようなものはほとんど行ったことがないけれど、それでもあれこれしなければならないことはある。宿の手配、交通機関の確認、朝食はどこで摂るか、夕食は鍋にするか懐石にするか。朝は何時に起きて夜は何時に寝て。雨は降るのか降らないのか。台風はどこにいる。

あああ。面倒くさい。

外食の多さも嫌だ。関西育ちの私には、外食は塩分が多すぎて疲れるのだ。しかも野菜が少ない。サラダを食べたくても、レタスしゃりしゃり人参さくさくお芋ほくほくの快感が、お金を積まないと得られない。勇気を出して注文しても、油の酸化したドレッシングがどろどろかかっていたりする。だいなし。それに、出されたものを残すということができないので、不味くても全部食べる。胃が腫れ上がる。

どうしようもない「多さ」が、一気に押し寄せてくる。それでへとへとになってしまって、何のために行ったのか分からなくなってしまうのだ。

だから、旅行はほとんどしない。

けれども、どうしても旅立たなければならないときもある。

人生というのは、そういうものである。

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