90'

42歳の誕生日はスピッツのCDを聴きながら終わっていく。

90年代、私は大学生だった。80年代に迎えるはずだったそれは十年ずれていて、けれどそれが私の人生に何を及ぼすでない、はずだった。

失われた十年、と表現されるバブルの頃ほどではないが、景気はやや回復傾向にある。

大学を出ても全く就職活動をしなかったしっぺ返しなのか、学歴の持ち腐れの仕事が、もう1年半続いている。

でも、おそらくは、私は何も失っていないのだ。

私の側を去っていった人がどんなに多くいたとしても、二度と会えないのではなく二度と会わないと決めた人がどんなに多くいたとしても、思い出にさえならない人がどれだけいたとしても、それでも私は、何も失わないのだ。

だから、ひさしぶりに歌を聴いて涙が出たとしても、それは違うのだ。それは同じ涙ではない、ただちょっと疲れているだけのことなのだ。

おそらく、私はあらゆる人々のことを忘れていく。あらゆる人々が私を忘れていくように。

私はおそらく、普通以上に愛されて育ち、幸せに育った子供なのだと思う。

だからといって、忘れないわけでも、忘れられないわけでもない。

忘れずには、生きてはいけない。おとといの晩ご飯を永久に覚え続けていくわけにはいかない。

いつかは、私も灰になり、この世のゴミの一つになって、おそらくはそのほとんどが他の骨と混ざって、どこまでが私か分からなくなる。

そのゴミが煌めくことはないとみんなが知っているし、その意味で皆が平等なのだと、誰も口にしないけれど知っている。

ほら、だって、奇跡なんてない。この地球上には、私と同じ誕生日の人が何千万といる。同じクラスに同じ誕生日の男の子がいた。でも同じ人生のはずもない。同じ運命なんてありようもない。

私は誰の側にも居続けることは出来ないし、誰も私の側に居続けることは出来ない。

でも、だからこそ、君の側にいる、君が側にいる、と誓い続け、望み続ける歌がどこまでもどこまでも、自転車に乗って続いていくのだと、けれどそれを言ってしまっては身も蓋もないので、誰も口にしない。するとしたらそれは中島みゆきくらいのものだ。

そして、そのことすら、私は忘れていく。私が忘れたことは、忘れられていく。

言葉を手に入れたことで進化しなくなった人間は、けれどことごとく忘れることで、同じ過ちを限りなく繰り返し、またそれを忘れてしまうことで、未来を見る。

言葉の上だけの未来は、限りなく忘れられ、それはあるはずのない希望に変わる。

その足下に、累々と横たわる忘れられた過去には、目もくれない。その中にこそ進化があるのに、本当の未来があるのに。

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