干物

貰い物の干物は、薄緑のプラスチックの笊の上に乗っかっていた。

干物を食べてしまうと、残った笊はいかにも所在なさげだった。

あれに写真を貼って飾れば、そう、五郎さんの写真を貼って飾れば、額縁みたいに見えないこともない。

大宮ししょう、中学二年の夏のことである。

好きになったきっかけは、父の一言である。「野口五郎て時々ラジオで聴くけど、高い声が綺麗に出るなあ」

それをそのまま鵜呑みにして、好きになったわけではない。断じてない。けれども、アイドルと名の付くものがすべて大嫌いだった昭和十年生まれの父が、初めて誉めたのである。それで興味を持ったのだ。

人のことは言えない、私もアイドルは嫌いだった。小学生の頃人気があったベィ=シティ=ローラーズも、曲はいいなと思ったけれど、みんな頭の黄色いオッちゃんにしか見えなかった。それに、知らない人がにこにこして近寄ってきても決してついて行ってはいけませんと厳しく躾られたからか、テレビの中でにこにこしている人はみんな胡散臭く見えた。

今の歌手に比べれば、みんな歌は巧かった。でも、下手な人もいて、そういう人も人気があった。そういう歌の歌詞の意味は子供の私にはよく分からなくて、分かると大抵気分が悪くなった。似合わないミニスカートをはいたり、すぐ上半身裸になったりすることも今より多かった。ような気がする。

野口五郎は、ちょっと違った。なにしろ足が短いとみんなにからかわれていたから、上半身裸に・・いや、なっていたかも知れない。よく知らない。

好きだからといって、レコード(その当時はみーんなアナログ)や芸能雑誌を買ったりということはしなかった。母は本はほとんど読まないし、父は見栄もあるのだろうが、芸能雑誌を家に持ち込まなかった。父が読んでいるのを見たことがある雑誌といえば週刊朝日に週刊新潮、時々週刊ポスト、あとは文芸雑誌。女性誌は暮らしの手帖かNHKの今日の料理くらいなもので、明星や平凡すらなかった。

だから、野口五郎の写真は友達がくれた。雑誌が入っていたのであろう紙袋の中に忍ばせて、いかにも重大な秘密であるかのようにそっと渡してくれた。

雑誌のページを丁寧に切り抜いたものであるそれには、野口五郎の写真と、篠山紀信のコメントが載っていた。野口五郎自身のコメントではなかったことが印象的で、それで私は篠山紀信という写真家を知った。

コメントによれば、野口五郎の写真を撮るのはそれが初めてではなく、デビュー直後にも撮影したことがあったという。その時の彼はあまりにも繊細で、とても芸能界でしぶとく生き残っていけるようには見えなかった。

それで篠山紀信はつい、「十年後には彼はいないかも知れないね」というようなことを口にしてしまい、それがどうしてだか野口五郎本人に伝わり、彼はひどく傷ついたのだそうだ、と、またどうしてだか聞かされた。

おそらく篠山紀信は、才能がないとかどうとかいう気持ちではなく、消え入りそうに細く弱々しい、田舎育ちの少年を哀れに思ったのだろう。けれど、結局それは彼を傷つけてしまった。

傷つけたのは篠山紀信ではなく、そんなことを告げ口してしかも結果報告までする周囲の人間だと、中学生の私でも思った。けれど、篠山紀信はそれを断罪するわけでなく、もちろん謝罪するわけでもなく、少し大人になった野口五郎の姿を、あのもんやりと靄に包んだような画像で著した。

篠山紀信の写真を、実はどうしても好きになれないのだが、そのコメントだけは今でも覚えている。

だから干物の笊に結束バンドで止められて、ケーキの箱を縛っていたごわごわのリボンでぶら下げられた「額」は、他の切り抜きの写真だった。その頃流行り始めた室内芳香剤付きの真っ赤なカーネーションとともに、心もち干物の臭いの残る額は、使い込んだタンスの角に引っかけられた。

それからほどなく、海の向こうから女王様がやってきて、一番の友達、という歌で私を完全に日本の歌謡曲から遠ざけてしまった。

それまでのごく短い間、確かに野口五郎は私の最初のアイドルだった。

あれから二十五年。私はあの時の彼よりも遙かに年を取り、彼には私より年下の女性との間に子供ができた。

今は、ゴローと言えば五郎ではなく吾郎である。それはよく分かっている。実は吾郎も結構好きだったりする。

けれど、彼が朝の連続ドラマに出ると聞くと、やっぱり、ちょっと嬉しい。

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