キュルティヴァトゥール


1行め ペーコンを好きな大きさに切り、小麦粉をうっすらとまぶす。タマネギ、人参、ジャガイモは賽の目切りにしておく。

2行め 熱した底の深いフライパンにサラダオイルを垂らし、焦がさないように注意しながらベーコンを炒める。

3行め フライパンにスープ(水でもいい)を加え、野菜を入れる。あくを取りながら野菜が柔らかくなるまで煮て、仕上げに牛乳を加え、胡椒、バターなどで味を調える。

キュルティヴァトゥール。フランス語である。どうしたって一回では発音できないから、声には出さない方がいい。農民風、という意味であるらしい。農民風のスープは野菜がそのまま残るのだそうだ。

では宮廷風はというと、ポタージュやコンソメのように具がスプーンに当たらない。確かに美しいが、何だか面倒くさい。

かといって農民風が面倒でないかというと、決してそうではない。

入る野菜の種類が凄い。ジャガイモと人参はともかくとして、タマネギの代わりにポロネギ(白くて柔らかいネギ)、いんげん、グリンピース、蕪、キャベツ、セロリの茎が入る。

これらが今、全部冷蔵庫に揃っている家庭はそうそうないだろう。いんげんも蕪も高級野菜だし、ポロネギの代わりに白ネギだとしたって高い。グリンピースは嫌いな人が多いし、セロリもそんなにしょっちゅう食べる野菜ではない。

それに。私は賽の目切りにするが、キュルティヴァトゥールは、人参とキャベツと蕪とポロネギとセロリをペイザンヌ(田舎風)にするのだ。一センチ角の薄切りである。賽の目切りの大きさのものを、さらに薄切りにするのだ。

あああ。面倒くさい。いんげんは下茹でしなくてはならないし、ベーコンだって小さく切る。キャベツは薄いし、ポロネギとセロリは細いにしても、人参と蕪。人参は水気が少ないから切りにくいのだ。

あああ。手が疲れる。

しかも。私はベーコンと一緒に小麦粉を炒めてそれでとろみをつけるが、キュルティヴァトゥールはジャガイモでとろみをつけるのである。ミキサーにかけなければならないのである。

あああ。洗い物が増える。

確かに、入る野菜の種類が多ければ、それだけ味も複雑になって美味しいだろう。けれど、揃えなければならない野菜の種類が多すぎる。切り方が細かすぎる。ジャガイモでとろみをつけるなんて面倒くさすぎる。

かくして、私はペイザンヌではなくミルポワにする。賽の目切りは、フランス料理ではあまり好まれないらしくて、料理に出すのではなくスープを作るときの切り方、いわば脇役の切り方なのだそうだ。

日本の野菜は、西洋のそれに比べると柔らかく、味が薄いのだそうだ。だからもう、ミルポワしてしまう。ころころした野菜の具合が好きだし、何より、切るのも早くできる。

つまり、「食感」という奴がいいのである。


実は、「食感」という言葉には違和感がある。

けれど、これは関西人にしかない違和感かも知れない。食感は「しょっかん」と読む。しょっかん、と言えば、関西では食用蛙のことだった。

戦後の食糧難に備えて、アメリカから食用蛙が輸入された。輸入と言うより、持ち込まれたとか払い下げられたとか言った方がよいだろう。大量に輸入された蛙は日本人の嗜好に合わず、さらには恐ろしいほどの急速な復興によって、蛙と、蛙の餌として一緒に輸入されたアメリカザリガニは、野に放たれて野生化した。

池や沼では日本古来の蛙より遙かに大きな「しょっかん」が、ぶおぶおと鳴いた。小さなヤマトザリガニは真っ赤なアメリカザリガニに制圧された。

「しょっかん」は大きな体の割にはのろくさいので、子供たちの格好の餌食となった。私も何匹捕まえたか知れない。今思えば彼らの体に付いていた中途半端な保護色は迷彩服のそれに似ていて、それが日本人の食欲を鈍らせたのかも知れない。

貪欲で知られたアメリカザリガニさえ、今では絶滅の危機にあるというから、「しょっかん」という中途半端な専門用語を、餃子を試食する小学生さえ口にするのも当然なのかも知れない。

かくして大宮風キュルティヴァトゥールは、フランス料理というよりクラムチャウダーになる。アメリカ名物のアサリ入りスープだ。でもアサリが入ってないからクラムチャウダーじゃないし。

これはつまり、関西人が無理して東京弁を喋ると名古屋弁になると言うのと同じく、日本人が無理して、しかも横着してフランス料理を作るとアメリカ料理になるのだろうか。

あれ。そういえば、キュルティヴァトゥールって牛乳入れたっけ。

参考文献 ル・コルドン・ブルーのフランス料理1.2.3 ル・コルドン・ブルー東京校編 日本放送出版協会

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