男。夕涼み よくぞ男に 生まれける 榎本其角(きかく)の句です。 この句の他に、「男」という言葉が詠み込まれている句は、ちょっと思い当たりません。探せばあるのかも知れませんが、たとえば梅や桜や紅葉や月といった定番の単語に比べると、「男」という言葉は、どうも詩的ではないらしい。 では、「女」はどうか。ちょっと調べてみましょう。 身の上を ただしおれける 女郎花 涼莵 じっとりしてますね。雨降ってる感じです。けれど、女郎花は花の名前で、直接女と言っているわけではない。 大原女に 恋せば 梅の花ざかり 宇古 花盛りなのは誰なんでしょうか。けれど、これも大原女といって限定しているので、ただ女と言うときほどの生臭さはありません。 割すそや 八乙女 神楽男より 千山亭 両方揃っているというのは珍しいですね。しかも、割裾などというあたり、けっこうエッチです。けれど、これも踊りのパートナーという立場の二人を外から見ている感じがする。 あった。けれど。「女」がそのまま入った句。ありました。 蜆とり 早苗に 並ぶ女かな もののふの 紅葉にこりず 女とは 秋色 ありました。けれど、これは男性が詠んだ句ではない。もとはお秋という、女性が詠んだ句です。しかも、これは秋色自身のことを詠んだ句であって、一般的な女性を詠んだものではなさそうです。 其角がそうであるように、秋色もまた関東の人。其角はばりばりの江戸っ子で、神田のお玉が池というところに住んでいたのだそうです。秋色は出身が武江といいますから、江戸近郊でしょう。 其角は、江戸っ子らしい開けっぴろげな気質で、しょっちゅう酔っぱらっていたそうです。有名なのは金柑の話。どうして金柑があって銀柑がないのか、と問われて、金、はあって銀玉はない、と答えたとか。 秋色は、庭園見物の帰り、雨が降って難儀している父親の代わりに紙の合羽を纏って笠を被り、ついでに裾まで高く巻き上げて走ったけれど、誰も気がつかなかった、という逸話があります。よほどがっちりした体格だったのでしょう。 どちらも、振興都市江戸の生まれ。 これは、偶然なんでしょうか。 どうしてだろう。「男」、「女」と括弧でくくったのは、そのまま出すとどうも生臭くていけないからです。けれど、男性、女性とするとすっと臭みが消える。なのに性、という文字は「せい」と読んでも「さが」と読んでも、濃い濃い。 「俺は男だから云々」「私は女だから云々」というときは大抵言い訳で、男性や女性を使うときには冷静な一般論になる。 「男」や「女」を、粘りけを出さず、しかも元の意味を殺さず、生で使いこなすには、そうとうの技術がいるようです。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ いかがでしたか。男や女がそのまま入った句、他にもあるでしょうか。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ はっぱ。鰐梨が好きで、よく食べます。アボガドのことです。ねっとりした果肉には、ぽん酢をかけて食べるのがぴったり。かける、というよりは、種を取った跡の穴に注ぎこんで、削りながら食べるのですが。 この削りながら食べる、というやり方、行儀がいいような悪いような。食べた後には皮だけになった果物がころんと残って、片づけはしやすいのですが、食べ物そのものを食器にしてしまったような後味の悪さは、やっぱりあります。 グレープフルーツしかり。メロンしかり。パパイヤは全く酸味がないのでこれでもかとレモンを搾り入れて食べるのですが、残った皮がまた、頼りない。 どうも、食べ物は箸で食べるのが上等で上品、というような意識があって、匙で果物をほじくって食べるというのを、本気で嫌がる人もいます。 そう、ほじくる、なんですね。その動詞の響きがよくない。食べるという行為も、いただくとか召し上がるとかいって丁寧に包んでしまうくらいですから、あんまり上等な行為だと思ってはいない。その上にほじくる、とくるわけですから、人によっては考えるのも嫌だ聞くのも嫌だ、となる。 まあ、その気持ちも分からなくはない。果物の皮というのはとかく面倒です。大きな棘があったり妙に細かい毛が生えていたり。そうかと思えば馬鹿でかい種があったり。 実は私の家庭もそうで、私だけがこのほじくる系の食べ方が大好きで、一人でパパイヤ一個、よく食べます。 可愛い。そんな可哀想なアボガドの種を、冗談のつもりで鉢に植えてみました。ご存じの方も多いでしょうが、アボガドの種はでっかい。直径5センチくらいあります。半分だけ土に埋めると、つるんとした皮が丸くて、結構可愛らしい。 実は、芽が出るとは思っていなかったのです。はるばる海外からやってくる間、種は果肉の中とはいえ、いろんな目にあっています。温度差、時差、高度差。 だがしかし。さすがは種、でした。アスパラガスのような芽の先で開いた葉は、みるみる大きくなり、もう5センチを越えました。 はっぱの可愛らしさ。葉っぱの可愛らしさは、葉っぱであるというだけではありません。 たぶん、色の残り具合も形も一番美しい絵画の葉っぱは、応挙の芭蕉図の芭蕉の、濃い緑でしょう。強い日差しをさけるのか、子供が目の上に引き寄せた葉の柔らかさとみずみずしさは、そのまま目に残ります。 けれど、葉っぱのすべてが美しいわけではない。虫食いありねじれありひねりあり。 特に伊藤若冲の葉っぱには、これでもかの虫食いがあります。私のアボガドも、ひとつ端が曲がっているのがあります。 これでもかの虫食いの穴から顔をのぞかせたカマキリの愛嬌も、長く心に残るものです。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ いかがでしたか。このパソコンを買って1年足らず。初めてハードを初期化しました。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ 瓶。この頃、簡単なリフォームでお家をすっきり、というのが流行っているようで、お昼のテレビなどでよくやっています。 三角形の押入を変形引き出しで使いやすくしたり、小物でいっぱいだった押入を片づけてちょっとした書斎にしてみたり。なかなか楽しい。 特に、一度やってみたいのが、食器棚の後ろに板を打ちつけて小さな棚を付ける、というやつ。 そこで、私もやってみました。どこかに片づけるものはないか。棚を作れるような隙はないか。 しかし。家族に無類の片づけ上手がいるので、私の家には無駄なスペースや無駄なものがほとんどありません。引っ越しの時には本と布団さえ片づければ後は普通の家庭の1人分しかないので楽なのですが、リフォームの楽しみはない。そして、私も実は、やたらとものを並べたり飾ったりするのは好きではない。 で。考えました。余っている棚板の下に、瓶を並べて足にする。即席の棚です。それで廊下のクローゼットの中を仕切りました。もともと片づいていたのですが、棚のおかげで、大工道具やボンドが目の高さでさっと取り出せてしまえるようになりました。 うーん、もっとなんか、何かないか。 そういえば。洗面所の下の物入れ。ドライヤーが寝ころんでいるので、少しスペースが無駄になっている。 ちょっとだけ。寝ころんでいる上の空間が無駄になるわけだから、扉の裏にぶら下げればいい。フックをつけよう。 なぜか我が家には大小さまざまなフックがあって、エントリーされたのは鍵型の白いプラスチックのフック。木ねじで止めます。しかし、ドライヤーの柄についている輪は、小さ過ぎて掛けられない。かといって、輪が通せるような細いフックでは頼りないし、格好が良くない。 おーし。これだ。かつては、お風呂の栓を止めていた、けれど途中で切れてしまったチェーンを短く切って、ドライヤーの柄の輪に通して、再び繋ぎました。うん、掛かる掛かる。 でも、扉を開け閉めするときに、ドライヤーががらんごろんぶつかる。 ならば。椅子やテーブルの足に張る、フェルトをあてがいます。内側だからそんなに目立たないし、ドライヤーもぐらつかない。 うーん、なんて賢いんだろう。 あまりにも賢すぎて、しばらく留守にしていた家族は、私が言うまで気がつかなかったほどでした。 そういうもの。けれど、そうしたもので、賢い気の利いた物は、実はあまり目立ちません。派手で人目を引く物は、えてして子供っぽく飽きられやすい。定番物と言われる物ほど使い込まれて洗練され目立たなくなり、けれど確実に役に立つ。 印籠についている小さな留め具の根付けなどが、まさにそうでした。 小さくて目立たない、けれどなければ印籠を帯に止めることができない。いわばネクタイピンのようなもの。それはある時は象牙で、ある時は翡翠で作られ、素晴らしく精巧な細工が施されているのに、決して目立たない。 本当に気が利いている、というのは、そういうことなんでしょうね。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ 師走です。でも暖かい。まだストーブもつけないでパソコンできます。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ 湯気。「都鄙風俗化粧伝」という本が、江戸時代にはよく流行りました。 読み方は、「とひふうぞくけわいでん」。お化粧の仕方や髪の結い方などがイラスト付きで詳しく掲載されている本です。現代のファッション雑誌と同じものです。都鄙、としたところがなかなか心憎いですね。この本に書いてあることは、都会でも田舎でも通用する、という訳なのでしょう。 その頃から、厚化粧はあまり粋なものではなかったようで、「白粉はさっとつくるのがよし」などとあります。歯の間に葱なんか付いているのはもってのほか、というのもありますから、マナー辞典でもあったのでしょう。 流行は当然男性にもあって、帯や髷が太くなったり細くなったりしているのだそうです。、そういえば、一時期、男性のネクタイが妙に太くなったり細くなったりしたことがありましたが、今はどうなのでしょうか。 たまるかな。その中に、薔薇水の作り方が書いてあります。今で言うならローズウオーターですね。ハーブのブームは江戸時代にもあったようで、薔薇から抽出した湯気を集めて作った化粧水は肌によい、お風呂上がりにつけたらもう、くらくら、なんてことが書いてあります。冷たい水の入ったコップを暖かい部屋に置くと露がつく。暖かく閉め切った部屋のガラスは結露する。あれです。 ただ薔薇の花びらを煮出してしまうのでは芸がない。ですから、花びらを入れた皿を火であぶり、その湯気を受けた茶碗をその上またに重ねた水の入った椀で冷やして、露にして溜める。 すると、ほぼ純粋な薔薇のエキスが手に入れられるわけです。が。 うーん、できるでしょうか。理科室の実験道具のビーカーやフラスコや五徳やアルコールランプや石綿のついた網なんぞがあれば何とかなるでしょうが、今の私にはちょっと真似が出来ません。 できることを。今の私たちに出来るのは、お風呂にあれこれ入れて楽しむこと。 香料の強いのや色の濃いのは、どうも香水の中に入れられているようで落ち着きません。自然塩や干した蜜柑の皮、大根の葉、でがらしのお茶などがいいのだそうですが、お湯がすさまじく汚れて、底にゆらゆら澱が出来たりする。人気の木酢液を試してもみましたが、クレゾールの匂いに酔ってしまいました。 それでも、毎日温かいお風呂にはいることの出来る贅沢には代え難い。 特売の入浴剤、今夜もお世話になります。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ そういえばこのマガジンも、一年です。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ 香。江戸時代は、どんな匂いがしたでしょうか。 嗅いだ人がいるはずはないですが、江戸時代にしかない香りは、きっとあったでしょう。 もちろん、よい匂いばかりだったはずもありません。トイレはなくてみんな便所でしたし、畑はみずからの栄養でもって肥やしていました。 洗濯機もなければ風呂もなく、食事も今のように脂っこくありませんし、髪は男女共結ってまとめていますから毎日シャンプーなんてするはずもない。 けれどもその代わり、洗濯や風呂掃除という家事は今ほどの重労働ではありませんでした。各家庭にお風呂がついているのが当たり前になってきたのはつい三十年ほど前。風呂がない家の方が多いわけですから、掃除をする必要もない。 それに、たいていの人々は単衣が何枚かに浴衣に袷、職人なら仕事用の動きやすい筒袖(今のシャツと同じ形の袖のもの)や、店の名前の入った法被(はっぴ)なども入り用だったでしょうが、他には丹前に帷子でもあれば十分でした。 貸し褌屋という、今でいえばワイシャツを洗濯してくれて配達までしてくれるクリーニング屋さんのような商売があって、結構繁盛したようです。都会には蕎麦屋や飯屋が軒を連ねていましたし、宮仕えなら食事も出ます。 今のワンルーム住まいの若者と大差ないほど、家事には縁のない暮らしを送ることが可能でした。 残るは。長屋が密集した下町は、現代の東京のそれと同じくらいの人口密度だったといいます。その彼らは、そして彼らの周りには、どんな匂いが漂っていたのでしょうか。 髪につける油の匂いを、嗅いだことがあるでしょうか。あれは、椿の花の匂いでもあり、オレンジの皮のような匂いでもあり。 栃の実を精製して練り上げた、その油の香りを、実は嗅いだことがあります。九州は博多。川の傍の屋台に、あるお相撲さんが付き人を連れて夕ご飯を食べにやってきたところに、たまたま私が友人と共に名物博多ラーメンを啜っていた、というわけです。 その香りはラーメンの湯気と混じっていましたが、しっとりと鼻に残る、それなのにしつこさのない、陽気で快活で品のよい匂いでした。 男性が女性の七倍いたという江戸には、あの香り、上質の木の精の香りが漂っていたと想像するのは、無茶でしょうか。 もしかして。最近のワンルームにはフローリングが多い。きちんと掃除をしている人なら、フローリングにはワックスを掛けているでしょう。そして、ワックスには天然素材のものを使うでしょう。蜜鑞のワックスならローズマリーやオレンジ、ユーカリの香りがすることでしょう。 同じ植物性油脂の香りの漂う小さな部屋の中には、テレビやエアコンのような電気製品以外には、江戸時代と大して変わることのない、家事労働とは無縁の若者がひとり、ぽつんといるだけです。 もしかしたら、その部屋の中の匂いは、限りなく江戸時代のそれに近い、のかもしれません。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ いかがでしたか。春です。部屋の掃除しましょう。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ |
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