外国語。

外国語というものがこの世にあるのだときちんと認識できたのは、さて、いつのことでしょうか。

関西弁圏で生まれ育ったので、日常会話は関西弁。けれども新聞や教科書、全国放送のテレビ番組から流れてくるのは、共通語。

ですから、私にとって日本語そのものがまずは二つに分かれていて、意味は分かるけれども使い方の全く異なるものでした。

共通語は意味の分かる外国語、他の外国語は意味の分からない外国語。そして、外国の言葉がカタカナで表されると知ってからは、すべての外国語はカタカナで書けるのだ、これで世界は私のものだ、と思っていました。

スチールの本棚で背中を冷やしながら頭の中だけで広がっていく世界はすべてひらがなとカタカナと漢字でできていて、英語もドイツ語もフランス語も、あったものではないのでした。

方言。

ですから、自分が関西方言を話しているという意識なんて、もちろんのことありませんでした。

私には記憶はないのですが、母が言うことには、「たくさん」のことを「ぎょうさん」というのは英語だ、と、高らかに宣言したことがあるのだそうです。

私の中で言語の中心は常に日本語、しかも関西弁であり、ですから九州弁はイタリア語で東北弁はフランス語だったりするのでした。

中でも英語は世界で一番よく使われている方言の一つで、クリスマスに聴くレコードの中の「ホワイトクリスマス」は英語方言で歌われていて、日本語の訳がついているのは、英語では訛りが強すぎて分かりにくいので日本語になっているのだ、と思っていました。

なので、私にとって方言である共通語の意味が分かるように、英語もいずれは自然と分かるようになっていくのだと、悠長に構えていました。

延々と。

ですから、英語はローマ字のように読むのではなく単語ごとに決まった読み方があるのだと知ったときには、くらくらしました。

しかも、be動詞が人称によって変わるということも、いつまで経っても理解できませんでした。

日本語と英語は成り立ちそのものが全く違う言葉で、日本語のやり方で理解しようとすること自体に無理があるのだと分かったのは、中学も二年になってからでした。

今でも単語に性別がある言語にはくらくらきますが、英語の癖は分かってきました。場所がほぼ同じなのは主語だけ。助詞を省いたところに前置詞をはめ込んでいけば、何とかなる。

今でも知らない単語が山ほどありますが、長くても、整った内容のある文章ならば何とか読めるようになりました。

けれど韓国語の実力があっという間に英語のそれを上回ってしまったのは、私の言語が日本式から脱却できない、何よりの証です。

  梅咲きぬ どれがうめじゃら むめじゃやら       蕪村

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いかがでしたか。いきなり寒くなりましたね。でもまだ油断禁物。

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