十五。

十五といえば、十五夜です。

とんでもなく季節外れですが、十五夜にお団子を供えたり、薄を飾ったりしますね。その場合の十五夜は秋ですが、春の朧も、なかなか捨てたものではありません。

月蝕が好きでした。実家には手頃な東の窓がなくて、お隣との垣根の隙間からなんとかどうにか見える月を、窓枠にしがみつき、しかも垣根の枝に目を突っつかれないようにしながら、なんとかどうにか見るのが、好きでした。

欠けていく月にずっとつきあっていたくて、澄んだ光を浴びながら痺れかけた上腕で耐えていました。

そういえば、他にも気に入りの窓枠がありました。

古い家を建て増し建て増しした実家の、その中でも一番古い窓枠には、たぶんスペインの民家を真似た、緑の幌がありました。

そこに、いつも徳利蜂が巣を作っていました。

巣。

徳利蜂の名の通り、その蜂は小指の爪ほどの大きさの、土でできた壺の中に卵を産みます。

蜂は、器用です。いや、蜂だけには限らないでしょう。機を織る鳥もいるし、茅を編む鼠もいます。

そんな巣を眺めているのが、好きでした。眺めていただけではなく、手に取っていたこともあります。たいてい巣は脆く、すぐに壊れてしまうのですが、小さな生き物が作り上げる、精巧な、しかもその生活に密着したものを眺めているのが、大好きでした。

卵を産み、子供を育て、眠り、起き、死んでいくための巣が、好きでした。

作品。

作品、という言葉、好きではないのです。そこからは生活の匂いがしないから。そこで生きる人の体温が感じられないから。

私が好きなのは、人々が毎日の暮らしに眺めたであろう小さな絵や、屏風の修理のために張り重ねた小粋な版画です。

本物だと分かった途端に三千万になってしまう絵では、ありません。

ですから、私にとっては、鳥や虫が針の先より細い足で、その人生のほとんどを捧げて織り上げた透き通るような巣の美しさと、八百屋の跡取りが家業を放り出して人生の半分を投じた絵画の美しさは、同じものなのです。

私が映画があまり好きではないのは、そこから指の感覚が感じられないからでしょう。好きな人にとっては、そこにこそ人間の創造が存在するのでしょうが。

私にとって人間の創造と動物や植物の営巣は、たぶん同列なのです。

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いかがでしたか。

ああ、2月は発刊できませんでした。すみません。3月は、もう少し時間を上手く使えますように。

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