曽我蕭白。仇討ちした兄弟ではない。江戸時代の画家である。

1730年は享保十五年生まれ。円山応挙より三歳年上である。亡くなったのは天明元年だから1781年。

確実に言えることは、これくらいのものである。それも、乏しい資料から逆算して生年を割り出しているから、もしかしたら二、三年くらいのずれはあるかも知れない。

出身地は伊勢という説と京都という説がある。伊勢の出身の説は、蕭白の没後四十年ほどして刊行された岡田樗軒の『近世逸人画史』に依る。京都説は京都興聖寺の過去帳に依っていて、親族関係なども記載されているし、岡田樗軒は江戸の人だから京都説の方が正しいのだろう。けれども古い本などでは「伊勢出身」と言い切っている。

最初に画業を学んだのは、たぶん高田敬輔(けいほ)という、近江は日野の画家である。けれど蕭白は高田ではなく曽我を名乗っている。

普通の画家は、自分の画には大抵自分の名前を入れる。判子を押す場合もあるし、サインのこともある。人に頼まれて描いた場合には、日付も書き込む。記念になるからである。そういうのをひっくるめて落款というが、蕭白の落款は他の画家とは著しく異なっているのである。

明大祖皇帝十四世玄孫蛇足軒曽我左近次郎暉雄入道蕭白画

従四位下曽我兵庫頭暉祐朝臣 十世孫蛇足軒蕭白左近次郎 曽我暉雄行年三十五歳筆

式部太輔蛇足軒暉雄玉(おうへん)入道十世 曽我左近次郎蕭白暉雄筆

長い。意味が分からない。ついでに、花押まで押してある。花押というのは手書きの判子のようなものだが、これもまた、訳が分からない。

けれど、何の意味もないわけではない。式部蛇足は朝鮮から渡来した秀文という画家の子と伝えられるし、秀文は曽我派の祖とされる。漢の時代には蕭何という功臣と蕭照という画家がいたらしい。

だから、蕭白がそのまま明大祖の十四世、ではなくて、明大祖の皇帝に十四世前には仕えていたかも知れないしそのまた玄孫の蛇足軒の画を見て面白いなと思ってあれこれ勉強してよしこれからは曽我を名乗ろうと決めた左近次郎暉雄入道が蕭という漢字が好きだから蕭白にしました、の描いた画、というなら、なんとかなる。

そうやって何とかしていけばどんなものでも何とかなるわけだし、なにしろ落款としてあまりにも長過ぎる。

だが、この落款と花押を蕭白の画に添えてみたとき。その長さと横行さは、全く気にならなくなるのだ。

彼は、風を描く。

その風は新米の仙人の衣を溶かし、鬼女の髪を梳かし、荒れ狂う波頭を宥める。龍の爪の先でぐるぐるととぐろを巻いたかと思うと、爪で削ったように荒い岩肌を霞ませる。髭を伸ばしすぎた仙人の鼻の下を伸ばすため、色白の美人の裾を煽ったかと思うと、いきなり去っていく。

去っていく風はしかし、とどまるところを知らない。

遠い遠い昔、宋の時代に生まれた李郭(りかく)と呼ばれた様式は、元、明と時代を生き抜き、朝鮮にも渡って新たな表現方式を加えられ、東の果ての戦国時代の日本に派手派手しく降りたって、一時期は下火になったものの再び力強く沸き上がり、東洋風のキュビズムとなって京の都の町人であった蕭白の人生を穿った。

そして、京よりも地方で愛された蕭白の画は、明治に至って偽物が出回るほど人気を博したが、大正、昭和と下るうちにあるいは戦火に焼け、あるいは捨て去られ、その存在すら忘れ去られていった。

第二次大戦後。風は蘇る。ついに風は太平洋を越え、アメリカのボストンで西洋人を魅了することになる。

浮世絵が大陸を越えてゴッホの元に届いたように、宋で生まれた画法は、半島から島へ、そしてはるか西の大陸へと、千年の時を経て旅をした。

誰が最初に起こしたのか分からなくなるほどに、自在にその色や香りを変えながら、風は、西へ東へ。

そう考えてみると、明大祖というのも、そんなに大げさでなく思えてくるのだ。

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