葡萄



伊藤若冲。

江戸時代を代表する画家の一人である。と言いはる人は、あまり多くないと思う。確かにその名は、与謝蕪村や円山応挙ほどには有名ではない。

その割には、2000年に若冲没後二百年を記念して開催された、京都国立博物館での展覧会は盛況であった。バスでやってきた団体さん以外にも、日本画を学ぶのであろう人、洋画を趣味とするのであろう人、ただ画が好きなのであろう人々が、辛抱強く並んで彼の描いた野菜や鶏や花に逢いに来ていた。

彼について、よく言われることがある。

八十歳を過ぎての高齢とは思えない創作に駆ける意欲。年齢を感じさせない若々しい表現力。

こんな話を聞いたことがある。お年寄りには手先の器用な人が多い。その技は、加齢によって衰えるどころが、むしろ磨きが掛かっていく。何故か。

個人差はあるようだが、加齢によって手先が器用になるのは、手首にある丸い石のような骨の数が増えるからだという。赤ん坊の頃には二つか三つしかないその骨は、加齢とともに数を増し、特に器用で国宝級の技を持つと言われるような人は、ごろごろとその骨を持っているのだという。

つまり、手首の動きを制御する歯車の数が増え、小さく精巧になり、複雑で繊細な動きをすることができるようになるのだ。

彼はおそらく、数え切れないくらいの骨を持っていたことだろう。小さな骨は、彼の手首の中で磨き上げられ、光り輝いていたに違いない。

そして彼は実は、早く年をとりたかったのではなかろうか。

青物問屋の長男に生まれながら、家督を弟に譲り、四十歳の若さで隠居してまで画を描き続けた若冲にとって、画以外のもろもろの事柄は、ほとんど意味のない存在だった。若いと、周囲はあれこれ言う。結婚しろ子供を作れ家を継げ。けれど爺さんには誰もそんなことは言わない。

彼の描く葡萄を見ていると、特にそう思う。

節くれ立った枝は、ある時は絡み合いある時は駆け上りある時は垂れ下がり、けれど確かに多くの実をつける。若い葡萄ではそうはいかない。葡萄の蔓は、堅くなり瘤を作り皺を寄せ、したたかな老獪さを身につけることで立ち上がり、意外なほどの深い甘みと鋭い酸味、そして豊かな香りを持つ実を、たわわに実らせることができる。

実際若冲は、画を売って糊口を凌ぐ必要がないだけの収入を得られる身分、ではあった。京の都のど真ん中、錦小路の青物問屋。今で言えば商社だろうか。その社長の長男として生まれた彼は、隠居後も、実家の桝屋が持っていた地代の上がりなどを得ることができた。もとより、そうでなければあれだけの画材を集めることも不可能だったろう。

当時、絵の具はほとんど輸入品である。それは同じ重さの宝石にも匹敵する。彼の画が二百年以上を経ても瑞々しく鮮やかなのは、保存状態の良さもあるが、絵の具の品質の高さにも依るのだという。

そんな高価な画材を買いあさり、画題にするための美しい鶏や鸚鵡を飼い、一日中部屋にこもって画を描き続けていても、それでも十分に暮らしは潤っていたのである。

けれどさすがに天明の大火では、家も、収入源の長屋も焼かれ、若冲は、一気に貧乏になる。生活を建て直すために画を描かなければならなくなった若冲は、たちまち病に倒れる。

だが、彼はむしろそれを楽しんでいたのではなかろうか。

画を売って得た米で、石工に五百羅漢像を彫らせることは以前からやっていたが、それに涅槃図を加え、若冲好みのあの世を完成させることにした。

あくまでも此の世に現実があるというのなら、此の世に自分であの世を作ってしまえばいい。あの世でなら、現実に惑わされることもない。

貧困は、実は人の心の中にある。現実に追い回されること、生活に負けることが、すなわち貧困である。彼は画を米に替えて暮らすようになってから、斗米庵と名乗り、金銭的な貧困すら描くことへの活力に変えさえしたのだと、二百年後にガラスの向こうに彼の画を見ながら、彼の齢の半分にもまだ満たない私は思う。

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