鬼つら



鬼の目にも涙、という言葉がある。鬼という名を選んだ彼は、何に涙したのだろうか。

上嶋鬼貫という名前を選んだ彼は。

うえしまおにつら、と読む。つらが顔ではなくて貫なのは、紀貫之への尊敬を込めて、である。

彼は、誰であるのか。

酒屋の三男である。それも、小さな売り酒屋ではない。伊丹でも指折りの油屋の。伊丹といえば、今は国内線のみとなった空港のある街として有名だが、江戸時代には灘と並んで酒所と謡われた。

つまり、サントリーとかアサヒとか、でなければサッポロとかの社長の三男だと考えてもいいだろう。三男といっても、長男は早くに亡くなっているので、実質は次男である。

彼の生きた時代には、ビールやワインは日本ではほとんど作られていなかった。必要なのは米。酒を作るのには大量の米が必要である。

江戸時代、幕府は農本主義政策を執っていた。金本位制が金を基準として経済活動を行うように、幕府は米を基準にして政治を執り行った。役人の給料は米で支払われ、税金である年貢も米で納められた。

だから、米はそのまま金でもある。酒造会社である上に、銀行でもあったのかも知れない。米が多く採れた年には酒は多めに仕込まれ、少なければ禁止令が出た。

市場に出回る米の量を、仕込み量で調整していたのである。ということは、銀行の中でも国債などを発行するようなところ。

だが、彼は俳人でもあった。彼が生きた時代は、かの松尾芭蕉と重なる。

   にょっぽりと秋の空なる不尽の山

不尽は、富士の山である。彼が仕官の話のために下った江戸に向かう途中に見た富士の山である。

さらに彼は、武士でもあったのである。

江戸時代は封建時代で、生まれた家が武士の家であれば武士に、農家であれば畑を耕して生きることになる、と考えられている。基本的にはそうなのだが、実際はそうでもなかった。

武士が画家になることもあるし、農民だった応挙は絵の先生になって武士を弟子にした。芭蕉も元は武士である。

そして、鬼貫は酒屋に生まれて武士になった。

武士の身分は、売りに出されていた。御家人株、と呼ばれて取り引きされていたのだという。おそらくは財政がひっ迫していた藩などが売り出したのであろう。それを買って、鬼貫は武士になった。

なったのはいいが、すぐにお勤め、というわけにはいかない。江戸まで下ったのに結局適当な口が見つからず、大阪に戻ってきたこともある。

その時の出張旅費は、どうなったのだろう。出なかっただろう。

仕官といっても、高給取りではない。三十人扶持といえば、そのまま三十人分の食い扶持、ということである。薄給で名高い与力がそのくらいだったというから、年収三百万あるかないか、というところである。

しかも、現金支給ではない、米で支給される。だから、米の相場によって収入が上下するのである。豊作で米が安くなれば安く買い叩かれるし、不作なら米そのものの量が減る。

もっとも、もともと扶持が目当てではない。あくまでも武士の身分が大事なのだ。武士の格好ができるということが大事なのだ。

だから、鬼貫は江戸に下る時には部下を二人連れていた。まだ仕官が決まっているわけでもないのに、である。そしておそらく、身分を売りに出さなければならないほど汲々としている本物の武士より、その身なりは立派だったろう。

つまり、こういうことである。

酒屋の三男として生まれて、俳諧も嗜み、武士の身分も手に入れた。

今風にしてみると、酒造会社の社長の息子として生まれて関連の銀行に役員として入り、大学の文学部の講師としての名もあり、地方公共団体の役員にも名を列ねている。

彼は、いったい誰なのか。

誰でありたかったのか。

皮肉なことに、鬼貫の周りの人物は誰であるかをはっきりと後世に残すことになる。

武士を捨てて諸国を巡ることで俳諧の祖となった芭蕉然り、浮き世草紙で名を馳せた井原西鶴然り。さらには、歌舞伎に舞台に映画に年末の特別ドラマに、おそらく永遠に残り続けるであろう名を残した、大高源吾。

赤穂浪士の一人である。大高源吾も子葉(しよう)という俳号を持っていて、二人はこんな句を一緒に詠んでいる。

    かく山を引ッたてゝ咲しをに哉   子葉

       月はなし雨にて萩はしほれたり   鬼貫

子葉のいうところの、山とは何だったか。それを引き立てて咲くしをに、紫苑は誰のことか。

紫苑は、師恩とも取れる。小さく淡い紫、道端にゆらゆらと咲く、決して頑強とはいえない紫苑の花を、誰に喩えたのだろう。

月がないのは、本当は誰だったろう。萎れたのは。恥にまみれて萎れたのは、本当は誰だったのだろう。

鬼貫を、愚かとは言うまい。

自分が何に相応しいか、知ることのできる人間は少ない。おそらく、鬼貫はどれにも、そこそこ相応しかったのだろう。町人としても、俳人としても、武士としても、及第点の取れる人物だったのだろう。

彼の残した句に、こういうのがある。

    土に埋て子の咲花もある事か

鬼貫は長男を幼くして亡くしている。

六歳で、疱瘡に罹って世を去ってしまった息子の亡骸を、土に埋めれば生き返るということが、もしやすればないだろうか。花の種を埋めれば芽が出て花が咲くように。

・・・いやいや、そんな馬鹿げたこと。けれど、枯れたように見える梅の花は、春が来れば花を咲かせる。いったい、花はどこから溢れてくるのだろう。

    木をわりて見たれば中に花もなし

        されども木より花は咲きぬる

彼の死から二百五十年後、アメリカの作家が小説の中で息子を土から蘇らせている。息子の父親は、先住民が使っていた死者を蘇らせる力のある土地に、交通事故で死んだ息子を埋めたのだ。

アメリカの、小説の中の父親は誘惑に負けたのだ。死者は決して蘇ってはならない。たとえそれがどんなに悲惨な死であろうとも。

そんなことは分かっていた。良く分かっていた。けれど彼は、息子の遺体を埋めた。息子を失った悲しみに、耐えられなかった。息子は蘇る。けれどそれは息子ではなく、息子の体を借りた悪魔だった。

鬼貫は、息子の隣に眠っている。

そして、鬼貫の句は、三百年の時を超えて、同じ国に住み、同じ言葉を話してはいても、全く異なる伝達方法を持つ私達の胸を打つ。

   拠秋は膝に子のない月見かな

男と生まれて、最大の幸せは、子供を膝に抱く事だと思う。血など繋がっていなくてもいい。子供の重みを、小さいが一人前に生きている子供を、膝や胸や背中に感じる事。

女は、その重さを内側で支える。けれども、己の体の中に決して子供を抱く事のできない男は、その腕で抱くよりない。目に入れても痛くないが、実際には入れられない。

その幸せを、手に入れられる事は稀である。その重みがとてつもなく幸せなものだと、感じとれることは、稀である。

男は赤ん坊の世話などしないもの、そんな事は女がするもの。そういわれて、そんなものかな、と納得してしまう。そうやって男は、せっかく生まれた自分の子供から遠ざけられてしまう。

鬼貫は、その幸せを手に入れた。幸せであればある程、それを失う悲しみは大きく、涙も涸れる事はない。

けれどそれでも、鬼貫は男として、最高に幸せであったのだと思う。

上嶋鬼貫(1661~1738) 参考文献「伊丹の俳人・上嶋鬼貫」日本の作家29
櫻井武次郎・新典社

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