酔鯉伝

あれに見ゆるは、淀の水にて育ちし鯉か。
黒き太き尾を打ち、飛沫を上げる様、覇気に溢れ、絶えて沈厚の気なし。

京・御幸町御池下ル

「平左衛門が、首くくった」
 蘆雪(ろせつ)が建てつけの悪い格子戸をがたがたと開け放つ間に、呉春(ごしゅん)は、ぽつりと言った。
「はいれ」
 そう強くもない西陽に目を細めた蘆雪は、いくらか痩せたようにも見えた。しかし、戸を乱暴に蹴りつけた膨ら脛の張りには、微塵の衰えもない。
 天明四年(一七八四年)。長澤蘆雪、三十一歳の姿である。
 蘆雪には、政勝、魚の名があり、氷計、引裾の字があった。円山応挙の弟子として、すでに洛中ではその名を知られる存在となっていた。
 呉春も、応挙の弟子である。弟子というよりむしろ、兄弟のような近しい関係であった。しかも、蘆雪より二歳年長である。
 その呉春を蘆雪は、座敷に招き上げるでもなく、上がり框に腰掛けて一杯やっている。竃の薪が、申し訳なさそうにぱちんと爆ぜた。
 寺町通りの賑わいが、遠くかすかに響いている。ちょうど、夕餉の支度に子女どもが忙しく走りたてる時刻である。物売りの声と、それを呼び止める女たちの声が、味噌の香りにゆっくり混じりあっていく。
「また呑んどるのか、政勝」
 盃を干して、ぷっと息を吐いた蘆雪は、へらへらと笑った。
「呑んだらいかんのか。自分の金で買うた酒呑んで、何がいかんのや」
 呑んで、呑み過ぎて、何もかもいけなくなる者もいる。
 呑んだ勢いで他の門人たちと大喧嘩、仲裁に入った者までも散々に打ちのめし、ひと月の謹慎を言い渡される弟子、というのが、そのいい例だった。
「呑むな、とは言わん。だが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしや」
「ふん。及ばぬくらいなら、過ぎた方がましや」
 思わず一歩踏み出した呉春の草履に、がさごそと触れるものがあった。焚きつけにでも使ったのか、唐紙の燃え残りが汚れた牡丹雪のように散っている。
 見ると、座敷にはすでに、描き殴られた唐紙が分厚い布団のように重なっていた。実際にその上で眠ることもあるようで、箱枕が転がされている。
 打ち捨てられた画の中には、ほとんど姿も浮かばないうちに燃やされたものもあった。すっかり完成し落款まで入れてあるのに、半分に引き裂かれて焦げているものもある。
 呉春は、惜し気もなく捨てられた画に、心ならずも見入ってしまう自分をやっと押さえて、太い声で言った。
「高価な紙をこのように粗末に扱うとは、何事や」
「紙は、画を描くためにあるものや。その画が気に入らずば捨てるしかあるまい。それとも、紙みそうずにでもして食うたらええのか」
 紙みそうず、つまり、紙雑炊のことである。
 人から預かった本を酒代にするために売ってしまった男が、紙みそうずにして食べてしまったのだ、と言い訳をするという話がある。
 呉春はすぐに、古今著聞集の中にある話のことだと気づいた。しかし、興言利口の篇やろう、などと手を打って言い立てれば、それこそ蘆雪の思う壷だった。
「血の巡りの悪いおまえには、それがよかろうな」
 呉春は、ぎろりと蘆雪を睨みつけた。
 紙みそうずは、『めぐり』とも呼ばれる粥のような病人食の一種であるという近年の説を、蘆雪は知らないらしく、次の答えに窮している。
 ‥どうもこの頃、言葉遊びが過ぎていけない。こやつの質が移ったか。
 眼を白黒させている蘆雪を眺めながら、呉春は顔の裏で苦笑した。
 蘆雪は、画の才だけでなく、漢詩論語などの知識にも長けていた。だが、その知識を教えとして受け止めるのではなく、酒の席を興じるための言葉遊びに置き換えてしまうのだった。
「わしは遊びにきたのではない。話があって来たのや」
 さらに踏み出した一歩を、まだ端が紅く燻っている一枚が遮った。
「火の始末を何と心得ておるのや。火元になりたいのか」
 いらいらと踏み消そうとした呉春の足が、宙を泳いだ。
「お、おまえ、この画は」
 ゆるゆると鯉の体に纏いつくような水の流れ。揺れる笹の葉の先に、かすかに緑青が乗せてある。わずかに頭をもたげた鯉は、遅い春の温い水に、やや眠たげである。
 その尾の先に、ちろちろと丹の炎の舌が踊っている。炎は、ゆっくりと鯉を丸焼きに仕立て上げようとしている。
「これは、この鯉は」
 これは、師匠の鯉やないのか。師匠の画やないのか。
 呉春の喉が、飲み込んだ言葉で膨らむ。
 猪口を持ったまま身を乗り出した蘆雪の傲岸な頬骨が、柔かく弛んだ。
 師の画を踏みつけるという大罪から辛うじて逃れた呉春は、さらに煙を上げ続ける鯉の尾を、なす術もなく見つめていた。
 焼け縮み、よじれていく尾は、最後の苦しみに悶えるように踏み固められた漆喰を叩く。
「おまえ、なんということを」
「師匠の画やと、思うたか」
「なに」
「それは、わしが描いたのや」
 爪を焼きながらも、呉春は素早くその画を取り上げた。執拗に粘り着く火の粉を掌で叩き落とす。
 この鯉には、鱗の一枚一枚にまで見覚えがある。黒々とした鯉の尾の周りで戯れる小魚とも顔見知りである。水に逆らう笹の伸びにも記憶がある。
「ふざけるな。これは確かに師匠の手や。わしの目を節穴と思うか」
 声を荒げた呉春の足元に、まだ墨の色も新しい画が飛んできた。さっき灰になったはずの、応挙の鯉だった。
「‥これは」
 また一枚、もう一枚。水面近くで、太い尾を打ち震わせて泳ぐ鯉。棒立ちになった呉春をからかうように、土間に溢れて、ぱっくりと口を開ける。
「もっと欲しいか」
「もう、もうええ、よう分かった」
 あまりにも師の手に似た、うずたかく積もった鯉を、呉春は丁寧に拾い集めた。
「よかったら、駄賃がわりに持って帰れ。なんぼかで売れるやろ」
「たわけ、これを師匠の画や言うて売ったりしたら」
「なら、応挙の一番弟子、一番に師匠に目ぇ掛けてもろてる男の画やと言うて売りゃあええ。ここに置いといたところで、焚きつけにしかならん」
 犬のように尖った歯を、ぎらりと剥き出しながら笑う。
 いったい、何匹の鯉が、師の手に酷似した鯉が、火あぶりになったのだろう。呉春の背が、薄寒くなる。
「まあ、そんな画でもな、酒の燗ぐらいはできるのや」
 墨の香の篭もった座敷の真ん中に胡坐をかいて、猪口に残った酒を絞り切る。
 師の偽絵を握ったまま、呉春は涼しい眉元を曇らせた。
「おまえ、師匠を恨んどるのか」
「なに」
「そうやないか。師匠の画を火にくべて、それで酒の燗などして。師匠が見たら、いかに思われるか」
「師匠の画やない。わしの画や」
 そう言いながらも、蘆雪は視線を反らせて背を丸める。
「なんで、わしが師匠を恨まないかんのや」
 酒でねばついた笑いを、高く清廉な声が遮る。
「恨んでおらんのなら、何故いつまでも画塾に出てこんのや」
 蘆雪が酔虎よろしく暴れ回ってから、すでにふた月が過ぎようとしていた。
「もう謹慎は解けとる。これよりさらに日を重ねたら」
「破門、てか?」
 ふん。鼻を鳴らして、猪口の端をぺろりと舐める。
「そうならんとも限らんぞ。師匠がいかに心の広い方とはいえ、他の門弟に対して示しがつかんようになる。どないする心づもりや」
「ふん。おまえこそ、あそこで焚きつけにしかならん画を何枚も何枚も描いて、どないするつもりや」
「それが修業というものやろう」
 蘆雪のぐるりと鋭い眼に、意地の悪い光が走る。
「それが修業と思う者は、勝手に思うとったらええ。わしにはもう、そんなもんはいらんようになったんや。おまえが持っとる画が、何よりの証拠や」
 呉春は、満身の力を込めて画の束を丸め、竃に突っ込んだ。ぱっと舞い散った灰を、優雅な手つきで払いのける。
「ほう。おまえにしては思い切ったことしたのう。触ることもできんやろうと思うとったのに。まあ、それでおまえもわしと同罪やということになるが」
 呷った酒で湿ったままの唇が、にやりと歪んだ。
「ふざけるのも大概にせえ。こんなことして、何が面白いのや」
「ふざけたりしとらん。わしはわしなりに、おまえの言う修業とやらを続けとっただけのことや。手本なしでな」
 酒を注ぎに、のそりと三和土に降りてきた蘆雪の腕を、煤の雲で汚れた呉春の掌がむずとつかんだ。
「なんや、おい。‥ほう、おまえも呑みたいんか。上がれ上がれ、茶碗でよければ、いくらもあるわ」
「いらん」
「ふん、遠慮か。それともなにか、わしのようなのと盃を交わしたとなると、呉春殿の名に傷がつくてか」
 呉春は、握り締めた掌にさらに力を込めた。
「おい、このまま師匠のとこに連れて行こういうなら、願い下げやぞ。わしはここで、自分で修業するんや」
 わめき続ける蘆雪を、呉春は引きずり出した。
「今日は、そのことで来たんやない。いや、いずれは来ることになったやろうが。とにかく、来い」
「訳の分からん奴や」
 蘆雪に蹴られて外れていた格子戸を直していた下男が、慌てて飛びのく。
「弥平、今宵は飯の支度はいらんと、ヨネに言うておけ。この御仁が馳走してくれるそうやから」
「へえ。お早うお帰りやす」
 舌打ちして、呉春は格子戸の隙間をするりと抜けた。腹太りした蘆雪の腰は、どすりと突っかえた。
「痛たたた」
 構わず歩を進める呉春の鼻に、みつばの香りが絡んだ。どこの屋敷からだろう、みずみずしく、雅に漂う。面取りして薄味で煮た小芋をまず器に盛り、茎を結んだみつばを乗せる。そこに熱い汁を張るのだ。間違っても、芋と味噌を一緒に煮るような愚を犯してはならない。
「ええ、放さんか」
 往生際の悪い大虎は、まだ悪態を吐き続けている。
「いや、放さぬ。今日という今日は放さぬ」
「分かった分かった、ついていくから、後生やから放してくれ、腕が抜けてしまう」
 やっと解放された腕をさすりながら、蘆雪は、くちん、と小さくくしゃみをした。
「寒いか。待ってやるから、綿入れでも持って来い」
「いらん。このぐらいの寒さ、もう一杯呑めば吹き飛んでしまうわ」
 確かに、ふた月前から部屋に篭りきりだった者にとっては、この風は堪えるだろう。鍋の肌に張り付けられたようだった京の夏は、突然井戸の底へと秋になる。掃き清められたばかりの通りに、一枚、また一枚と、縮れ枯れた柿の葉が散る。
 西陽が、蘆雪のしょぼついた眼を射る。
「おい」
「なんや」
「腹が減ったぞ」
 呉春の頭の中でも、すんなりと湯気を立てる味噌汁が駆けっこを始めていた。
「黙ってついてこい」
 蘆雪は、蔀を畳みかけている飴屋の前にしばらく子供のように佇んでいたが、呉春が脇目もふらずに歩いていくので、仕方なく小走りで追った。
 飴屋の隣の米屋の、木地のままの太い格子が目の端でちらちらと踊る。近頃は米の値も上がって、その分酒の値も跳ね上がっている。酒屋の紅殻格子も心なしか色褪せて、蘆雪の目尻を横切って行った。
 少なくとも、師匠の家に行くのではないらしい。四条麸屋町は、ここから南へ下る。曲がる様子はない。
 西陽に向かって、さらに歩き続ける。
 通りに張り出した聖窓には、もう灯が入っている。細目格子がさらに細かく浮き立って目の端が痛くなるほどに踊る。
 三階蔵の、その三階の客座敷から月を見ながら呑む酒は、どのような味がするのだろうか。ちょうど真新しい海鼠塀の影に、割れた爪のような月が沈みかけている。軒下に生意気に張り出した犬矢来を、竹の節を違えながら通り過ぎた。
 格子の続く町並みは、錯覚を起こさせる。
 ぐるぐるぐるぐる、同じところを回っているのではないかという錯覚だ。
「おい」
「なんや」
 呉春は、ふり返りもせずに答える。
 酒の熱で息の切れ始めた蘆雪は、言葉を継ぐのをためらった。
 呉春の背中は、広い。逆光で仰ぐからではない。墨染めの扇のようにすらりと流れた肩先は、触れれば切れそうに鋭い。
「なんや。言いかけて止めるな。口が腐るぞ」
「いや、もうええ」
 いつか、この背中さえ、まともに見ることができなくなるかも知れない。
 呉春が応挙と知り合ってから、まだいくらも経ってはいなかった。しかし、すでに呉春は、応挙の後継者として十分に通用するほどの画力と資質を、持ち合わせていた。
 いずれ、呉春はわしを越えて、いや、わしを押し退けて、師匠の跡に座るのに違いない。
 鳶に油揚げ、とは、このことやな。
 呉春の背中を、蘆雪は再び仰ぎ見た。
 まるで、柳のようだ。賀茂川の柳のように、風に煽られては従順に引かれ、また従順に押され。しかし、決して曲がることなく、折れることなく。春には柔らかな花房をつけ、陽射しの中で浅緑の葉を開き、秋にはきわだ染めの枯れ鮎を川面に散らし、身軽になった枝で冬を越す。
 いや、これは呉春の領分だ。
 画徘両道をたしなみ、かつて松村月溪(げっけい)としての名声をも馳せた、呉春の。
 呉春は、最初は大西酔月(すいげつ)に画を学び、のちに与謝蕪村の門下に入った。そこで俳画を学び洒脱な画風を身につけた。
 なるほど、師匠に気に入られるはずだ。
 呉春の名は、月溪として、蕪村の連歌集などにもしばしば姿を見せている。しかも呉春は、美濃國の名門土佐一族の流れを引く身という。
 淀藩の食い詰め武士の倅などとは、どだい身分が違うのだ。
 さらに聞くところによれば、呉春が生活に窮していた頃、蕪村は門弟知人に彼を紹介する労を惜しまなかったという。幾通も幾通も書簡を書き送り、呉春を篤実の弟子、とまで薦辞したという。
 その蕪村も、昨年の暮れに亡くなっている。呉春を枕辺に呼び、臨終の句『しら梅に明るよるばかりと なりにける』を書き取らせて、静かな往生を遂げている。
   明け六つと 吼て氷るや 鐘の声
 恩師の死の悲しみに浸る間もなく、呉春は蕪村の一人娘の生活のために、京と呉羽の里を往復する日々が続いていた。
 篤実の君子というのも、まんざら誉め過ぎでもなさそうである。
 ‥もしも、わしが、生活に窮し放浪の旅に出るとなったら。そうしたら、師匠は、応挙は、わしのために書簡を綴って下さるだろうか。
 きっと師匠は、わしのどこを賛辞すればよいものか、苦しみ悩むだろう。手のつけられない大酒呑みのわしを、誰に紹介すればよいものか、頭を抱えるだろう。
 いや。そうではなかろう。
 師匠はきっと、薄くなりかけた頭をつるつると撫でながら、暮らしが苦しうなるのも旅に出るのも、奴にとってはよい薬になるじゃろうて、と言って、くすりと笑うだろう。
 蘆雪の胸で、ぐらぐらと煮えたのは、それは、嫉妬だったろうか、羨望だったろうか。
 風車をかざした童が走り去る。夕餉の豆腐を抱いた女が、擦り切れた下駄を引きずって歩いている。  そして、格子の並びが、途絶えた。
 溝から下水があふれだし、二人の足元を濡らす。茶巾のように萎びた柿が、低い軒にごろりと乗ったまま腐っている。蒼い嘴の烏が、しわがれて啼く。
「どうした。急に静かになりおって」
 また振り返りもせずに言い放った、その後ろ姿に、蘆雪は師の影を見る。
「おまえが蕪村翁の下におった頃に描いた画を、見せてもろうた」
 ぴたりと、呉春の足が止まる。その前に回りこむと、羽織をひょいと絡げて顎を突き出し、袖を丸めて抱えるようにして、よたよたと後向きに歩いて見せた。
「俳画、のことか」
「いかにも」
「徒然草、か」
「ほう。よう覚えとるのう。人の田を論ずるもの、訴えに負けて」
「ねたさに、その田を刈りてとれ、とて、人をつかわしけるに」
「なんや、兼好は坊主やろ。女と寝てもええのか」
「寝たいのではない、妬んだ、のや。おまえにそれが分からぬわけがあるまい」
「分からん分からん、分からんのう」
蘆雪は、さらに腰を屈めて後ろに歩く。
「田畑の取り合いの挙げ句に、関わりのない他人の稲まで刈り取った話や」
「なんや、盗っ人話か」
「無理が通って通りが通らん、いうことや」
「ふうん、それはそれは、さすがは月溪殿やの」
呉春の顎が青ざめる。蘆雪は、ここぞとばかりに蟹歩きをしながら続ける。
「おまえの画には、皆ああして、なんやら説教が書いてあるのか」
「昔の話や」
「昔でもなんでも、あれはおまえの画やろうが」
「それが俳画というものや」
「そんなら、あの説教がのうなったら、おまえの画はどうなるのや。もともと添え物の画は、どないなるのや」
「なんやと」
 振り上げられた呉春の腕をするりと抜け、蘆雪はわめいた。
「おまえの画なんぞ、皆借り物や。いや、おまえの画なぞ、もともとありゃあせん。おまえの画なんぞ、皆、生臭坊主の説教の飾りや」
「黙れ」
「いや、黙らん。そやからおまえは、すぐに師匠の懐刀になれたのや。なんのこだわりもなしに、写生画に取り組めたのや。そやから」
 誰かが抜き忘れた杭が、蘆雪の踵を浚った。蘆雪の四角い体は、横にどうと倒れた。
「こら、こらっ、起こせ、こけたのは、おまえのせいや。おまえがわしをこんなところまで連れて来なんだら、こんな、でこでこの道を歩かんですんだのや。こら、起こさんか。聞こえんのか。おまえの耳は、師匠の言うことしか聞こえんようになっとるのかっ」
 呉春の手が、不承々々差し出された。蘆雪はその手を払い退け、悪態を吐きながら立ち上がった。
「なんや、起こせと言うておいて」
「人の助けは借りん」
「ふん。酔っ払いめが」
「ふん。腰巾着めが」
 こびりついた泥を、揉んで落とす。新しく着物の膝ににじんだ薄茶のしみは、すぐに他の古いものと紛れてしまった。
「して、いつまで歩かせる気なのや。陽が落ちてしまうぞ」
 熟し柿より赤い夕陽が、呉春の鏡のような月代に照り映えている。すでに墨に染まっている爪先が泥に汚れるのを気にしながら、蘆雪はとろとろと歩いていく。
「足袋が汚れてしまうわ。こんな外れに何があるのや」
 ふい、と、呉春は通りを北に曲がった。
「おい、待たんか」
 慌てて追った蘆雪は、ひときわ深い泥だまりに足を突っ込み、天を呪った。
「ここや」
 景気の悪そうな紙問屋と、埃を被った本がまばらに並んでいるだけの草紙屋との、間。猫でも通るのか、下のほうに大きな穴の穿ってある木戸を、呉春が開けた。
 黒い板の高塀に挟まれ、肩をすくめるほどに狭い路地の向こうから、雪隠の匂いと、斜陽が襲ってくる。
「おい」
 呉春は、さっさと路地に入っていく。蘆雪は、塀のささくれに袖を取られぬように体を横向きにして、ついていった。
 裏借家の、一様に腐りかけた板縁が、延々と西陽に向かって連なっていた。洗濯のすすぎ水が、井戸の周りに朱を映している。
「おい」
 軒の高さは、八尺に足りるだろうか。一間程の土間に、ひび割れた竃が据えられているのが、ちらりと見えた。土間に散らばる草鞋の多さは、この辺りの怪しさを物語るに充分だった。
 浮き島のようにやっと残っている、乾いた土を跳び伝って、呉春はさらに奥に進む。
「おい」
 何故、井戸のそばにも縁側にも、人の姿がなかったのか、その理由が見えてきた。影ばかりを伸ばした人群れが、ぐずりと固まっている。
「こんなとこに、見せ物小屋でもできとるのか」
 それにしては、人々の背中は塗り壁のように表情がない。
「この辺りでは、道端で通夜をしよるのか」
 蘆雪の胴間声に振り向いた女の瞳が、びいどろ色をして光る。うなじの、後れ毛というより櫛に絡って切れた髪が、寒々となびく。
「そういえばおまえ、平左衛門がどうとか言うておったな」
 破れ疲れた着物の足元から、煮しめたように古い筵が垣間見える。
 油っ気のない童の頭を脇へ押し退け、蘆雪は筵を足先で蹴り上げた。見物人の口から、低いうめきが漏れる。もちろんそれは、抗議の色を含んではいない。
「縊れたか」
 男の息の根を止めた荒縄は、すでに取り外され、叩き殺された蛇のように男の傍らで伸びている。
「こやつ、何故にこんなとこで首を括りよったんや。こやつの家は三条の呉服屋やろ」
「とうの昔に潰れたわ。借財がかさんでの」
 人垣を肩で切るように分けながら、呉春が言った。
「借財やと。ふん。回らんようになった首を、自分で締めてしもうたというわけか」
 蘆雪は、平左衛門の枕元に屈み込んだ。
「母親が長患いしておっての」
「こやつめ、病気の母親残して首括ったか」
「もう、死んだわ」
 呉春は、井戸を守るように立っている、わずかに葉を残した桐を見上げた。
「平左衛門が縊れたのと同じ、この木にぶら下がっておったわ」
 呉春の言葉に怯えたかのように、心の臓の形をした葉が、はらりと散り落ちた。
 蘆雪は、平左衛門の顎をぐいと持ち上げた。目は閉じられていたが、よだれで衿元は汚れ、下股からの異臭が筵を通して漂ってくる。見物人たちは、悲鳴を上げ後ずさりながらも、両目はしっかり平左衛門の喉元に据えた。
「この色や。こやつは、この色を出せんで苦しんでおった」
 借財と母の病にねじ伏せられた男の首に、蘚芳の色がうねりと浮かび上がっている。死人の肌の上で、その高貴な色は陰惨に映えていた。
「己れの首にこの色が浮いとるのを見たら、平左衛門のやつ、地獄の鬼の臍噛んで悔しがるやろうて」
 乱暴に筵を被せて、蘆雪は立ち上がった。胸に置かれていた腕が、ずるりと嫌な音を立てて落ちた。
「どこに行くのや」
 呉春が、蘆雪の肩を押さえつけた。
「飯を食いに行くのや。五条烏丸に、うまい饂飩を食わせる店がでけたそうでのう。どうや、おまえも」
 饂飩に乗せるかき揚げについて一説垂れようとした蘆雪の目に、呉春は再び男の死体を晒した。
「もうええぞ。言うておくがな。わしはな、仏の十や二十見せられたところで、なんともならんぞ。そないな腰抜けやないわ」
 呉春は、無言のまま平左衛門の懐を指差した。小さく畳まれた紙がわずかに覗いている。
「それを見てみい」
 すっかり冷えきった懐から紙を抜き、蘆雪は、半月に開いた目をそれに落とした。
 それは、応挙の画の模写だった。
 空を突く竹の葉の間で小米をついばむ雀の姿に、応挙特有の剥製のような精巧さは確かに見て取れる。しかし、あの鯉とは違い、跳ね遊ぶ雀の瞳には笑いの色が濃く落とされている。
「見覚え、あるやろう」
「知らん」
「嘘を申すな。鯉には騙されたが、この雀はどう見てもおまえのものや。この太過ぎる嘴といい大き過ぎる目といい、まさしくおまえの手や」
「ほう。わしの手のことを、よう知っとおいやるのう」
 赤く染まった呉春の掌を、蘆雪はひらひらと叩いた。
「そうや。その通りや。おまえの見立て通り、この画を描いたのはわしや。こやつが、どうしても師匠の画が欲しいと言うてねだるもんやから、師匠の画を写して」
「そうかな」
 蘆雪の手を払い退け、呉春はきつい声で言った。
「おまえは、この画を師匠の画と偽って渡したやろう。おまえが写したものと知っておったなら、最期の時にまで懐に入れておくわけなどないからな」
「ずいぶんな言い方やのう」
「どうなのや。おまえは、平左衛門を騙したのか」
 蘆雪は、平左衛門の最期の湿りを吸った画を、山際ににじむ陽に翳した。
「いや。わしは、渡したりはしとらん。売ったのや」
「う、売った、だと?」
 蘆雪は、飄々として答える。
「そうや。こやつが、ただで貰うわけにはいかんと言い張りおっての。しょうがなしに売ったのや」
「いくらで売った」
「一分や」
「一分やと? 長患いしておる母親を抱えた男から、おまえ、一分も取ったのか!」
 耳たぶを染めて憤る呉春に、蘆雪の平然とした言葉が返ってくる。
「そんなことを、わしが知るわけがなかろう」
 噂話を何より忌み嫌うという妙な潔癖さを持ち合わせている蘆雪にとって、生前は鬢の乱れすらなかった平左衛門の家の事情など、知る由もなかった。
「おまえ、取った取ったと人聞きの悪い言い方をするがな」
 声をひそめた蘆雪の頭の上で、雀の影が踊った。
「師匠の画をまともに買うたら、小さなもんでも十匁はする。それが一分で買えたと、こやつは喜んでおったわ」
「偽の画とは知らんからのう。そりゃあ喜んだやろう」
「偽ではない。平左衛門が本物やと思っておったのなら、この画はすなわち師匠の画なのや」
 風が、わずかに残っていた陽だまりのぬくもりを吹き散らした。肩を縮めながら、蘆雪は続ける。
「いずれ、この画は、一分どころか二十匁三十匁の値がつく画なのや」
 無恥というには、あまりに爽快な蘆雪の顔を、呉春は言葉もなく見つめた。
「もう少し生きておればのう。この画を売って楽な暮らしもできたものを」
 蘆雪は画を畳むと、平左衛門の懐の奥深くしまいこんだ。
「そのようなことを続ければ、おまえが師匠の偽画を描いて売り歩いておると、世間にあまねく知れ渡ってしまうぞ」
「売り歩いてなぞおらんぞ。わしはなあ、一度もこの画を師匠の画だとは言うてはおらんのや。師匠の画の手本や、と言うただけや。それを平左衛門が勝手に師匠の画と思い込んで、売ってくれ売ってくれとせがみおったのや。わしとしては、師匠の画をそう安く売るわけにもいかんし、で、一分で売ったのや」
「おまえというやつは‥」
 呉春はしかし、堅く合わせた歯をくすぐるような笑いが、じわじわと腹の底から浮かんでくるのを感じていた。
 応挙の名声は、すでに箱根の関を越えていた。地方役人の三男坊や富農の倅などの他にも、名家の血を引きながら郷里を追われ、起死回生の時を虎視眈眈と狙う庶出の少年などが、日を空けず応挙の門を叩いた。
 太平の世は、画師に食う道を与えた。画師を支える豪商豪農が各地に生まれていた。金持ちどもは競い合って、名のある画師の画を買い漁った。そして同時に画の技は、食うための技に成り果てていった。
 呉春にも、覚えがある。
 家業の金座の資金繰りが滞り、ついに店を畳まなければならなくなった。つまり倒産である。あの苦しい時期に、とにかく借金だけは取り立てようとした連中が今では、あの頃の縁を盾に、応挙の画を、さもなくば呉春の画を手に入れようと蛭のように吸いついてくる。
 そして、それに笑顔で応じる、画師の呉春がいる。
 平左衛門が、どれほど応挙の画に執着したかは知らない。しかし、なるたけ安価で手に入れようとあの手この手を使う族に比べれば、まだしも良心的と言えよう。手に入れたその画が、真っ赤な偽絵であったとしても、だ。
 それに、わずかな間であったとはいえ、平左衛門にとってその画は、心の拠になったのに違いなかった。
 そして蘆雪が、一日に百枚千枚と写した画の中のたった一枚を、師のそれだと偽ったとしても。自分はそれを、どれだけの罪だと責められよう。
「言うておろうが。わしは、この画は師匠の画だとは、ただの一度も言うておらん」
「しかし、おまえが騙し取った一分があれば、誰も首を括らんですんだかも知れぬ」
「騙してはおらん」
「同じことや」
「分かった分かった。根負けや」
 蘆雪は、ぽい、と銀貨を投げてよこした。
「それで葬式でも何でも出してやるとええ。その代わり、今宵の饂飩はおまえの奢りやからな」
 呉春の指から滑った銀が、薄墨色に光って、落ちた。

Copyright (C) 2011 大宮ししょう

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