仮名手本五十三次

日本橋

「お、っと」
 浅葱色の股引の間をするりとくぐり抜けたのは、白地に茶色のぶちの、子猫である。
「・・驚かしやがるぜ」
 佐七は、足元にすり寄って離れない子猫を蹴り上げようとしたが、とどまった。
 物音は、立てないほうがいい。
 何を興奮しているのか、子猫の弓形に丸められた背中の毛は、ふわりと逆立っている。ところどころに禿げをこさえているのは、どこからか悪い病気でも貰ったか。
「・・・しーっ」
 子猫は、逃げるどころかますます佐七の足に絡みついてくる。
「ええ、邪魔っけな」
 佐七は子猫の首っ玉を捕まえると、懐に抱きこんだ。
「ここで大人しくしてな」
 ごろごろ、低く喉を鳴らすと、子猫は巾着のように小さくなった。
 人の気配は、まだない。だが、追ってこないと見せていきなり物陰から飛び出す、というのが、あいつら岡っ引きのやりくちだ。
「殺る気なんぞ、なかったんだ」
 だが、佐七の言葉を信じる者など、深川の底まで攫っても見つかりはしないだろう。
「俺の運も、底をついたか」
 いや、十三の春に佐七の運は種切れになっていたのかもしれない。はやり病で一度にふた親をなくし、貰われた先の親も一年もしないうちに夜逃げした。
 よくある話、ではあった。盗人仲間の誰もが、大同小異の事情を抱えていた。
 だが佐七の場合、その盗人仲間にまで盗人呼ばわりされたところが、他の連中とは違っていた。
 佐七は、盗人の癖して親方面や兄貴面して説教を垂れる連中が、大嫌いだった。盗人なら盗人らしく、骨の髄まで盗人であるべきなのだ。寸暇を惜しんで人様の物をかすめとるべきなのだ。盗人同士だからといって手加減することなどないのだ。
 だから佐七は、あっという間に一匹狼の盗人になった。
 だからといって、好き放題の盗み方をしていたわけではない。一匹狼には一匹狼なりの道理がある。それくらいのことは説教されるまでもない。
 十八になるこの日まで、一度たりとも貧乏な長屋などからは盗まなかったし、女を手籠にしたこともない。それどころか、赤ん坊一人泣かせたことさえなかったのだ。
 まるで風のように忍びこみ、狙ったものだけを戴いていく。盗みに入られたことさえ気づかせないのが、一流の盗人というものなのだ。
 それが。
「・・・なんだって、あんなところにいやがったんだ」
 薬種問屋伊勢屋の裏庭に潜りこみ、蔵をこじ開けて高価な薬ばかりを盗み出したまでは、よかったのだ。
 一番上等な薬は、一番みすぼらしい蔵の中、使い古しの枡をふたつ合わせた中にしまってある。
 手代からそれを聞き出すまでに、ずいぶんと元手がいった。だが、薬で金儲けをするつもりはなかった。いや、手代の口を割らせるために支払った花代や酒代くらいは返して貰う。饂飩粉で嵩上げして、伊勢屋が薬売に卸すよりもっと安く、売ってやるつもりだ。
 盗人にも、盗人なりの人情というものがあるのだ。
 なんにしろ薬は、高過ぎる。
 薬屋は気軽にほいほいと十両や二十両の値を付けて売ってくれているが、売り飛ばすに頃合いの年頃の、しかも器量よしの娘でもいなければ、とても買える代物ではない。
 それに、たとえ飲んだにしても、それで病が直るという証もない。それが効かぬなら次はこの薬、と薬屋や医者は、まことしやかな顔でさらに高価な薬を売りつけてくるだろう。
 ならば、八割り方が饂飩粉の薬でも、薬を飲んだという満足感を手頃な値で味合わせてやるほうが、よほど病に効くのに違いない。
 これが、盗人稼業で飯を食っている者のせめてもの世間への恩返しだ。
 と、一人悦に入っているまではよかった。
 ごそり、と植え込みから物音がした。
 振り返ると、頬のやたらに赤い娘が、目を飛び出させんばかりに見開いて突っ立っていた。色は白いがぺったりと広がった鼻に右眉の上には大きな黒子だ。
 その娘の口が悲鳴を上げる一瞬前、佐七は飛びかかり、口を塞いだ。娘は蟹のように手足をじたばたさせていたが、やがてぐったりとなった。
「・・・おい」
 頬を撲ったが、娘はぴくりとも動かない。
「おい。おい、なんとか言えよ」
 あまりにも長い間口を塞いでいたせいなのか、娘は、佐七の腕の中でぐにゃぐにゃと萎んだ。
「・・・ひっ」
 佐七はそのまま娘を放り出し、ささくれに足を引っ掻かれるのも構わず、板塀をよじ登って逃げ出した。
 次の日の夜。もしやと忍びこんでみた伊勢屋は、通夜の真っ最中だった。
 そのまま、この日本橋まで駆けてきた。
 駆けてはきたが、どこにも行くあてはない。
 橋のたもとには、材木屋が軒を並べる。
 丸太から切り出されたばかりの真新しい板が蔵の壁にびっしりと立て掛けられていて、ちょうどいい頃合いの影を作っていた。佐七は、その中で膝を抱えたまま夜を過ごした。
 けれどこんな人気の多いところで朝までぐすぐすしていたのは、心のどこかで追っ手が来るのを待っていたのかもしれなかった。
 ・・・それ、あいつが人殺し野郎だ、捕まえろ、ひっ捕らえろ・・・袴の擦れる音、呼笛の響き、青白い御用提灯の光・・・
 その騒ぎの真っただ中にいてみたいと、望んでいたのかもしれなかった。
「いや、その気はなかった」
 あれくらいのことで人の命が消えてしまうなど、思いもしなかった。
「・・・さて、どうする」
 恐れながら、と自分から名乗り出ることもできるだろう。それが潔いやり方ではあるだろう。
 だが、昔の仲間達が、それみたことか奴はやはり下衆の中の下衆野郎だったのよ、と嘲笑う声が、きりきりと耳の奥で響く。
 もうすぐ、夜が明ける。
 薄い雲の裂け目から、夜が慌てて逃げ出していく。
 のっぺりと色気のない納戸色の朝が、かちかちと音を立てながら雲の裂け目を広げていく。地平線は、ぼやけた朱をにじませているかと思うと、すぐさまこすり取ったような曖昧な様子で光り始める。
 夜が、明ける。
 まだ太さの足りない大根を山と篭に盛った男達が、白い息を吐きながら駆けてくるのが目に付いた。ぱんぱんに油の乗った秋刀魚が反対側から駆けてきた男の篭の中から、ぴゅぴゅんと飛び出した。それを狙った野良犬を天秤棒でぶん殴る男がいる。犬は、情けない悲鳴を上げながらも、まんまと秋刀魚を奪い取っていく。
 朝が、やってくる。
 人が一人死んだというのに、いや、殺されたというのに、いつもの顔をしていつもの仕草で、夜は明けていく。
 あの娘の頬は、朝焼けの朱より夕日の茜よりも濃い赤だった。
 おそらく、江戸の生まれではないだろう。
 昔、まだふた親が生きていた頃に聞いたことがある。家の軒より高いほど、それこそ気が遠くなるほど雪の積もる国が江戸よりはるか北にあって、その国の女たちは皆猿の尻より紅い頬をしているのだと。
 北、か。
 このまま北に向かうことが、あの娘の菩提を弔うことになるだろうか。
 いやいや。と、佐七は慌てて首を振る。
 佐七は、何よりも雪でぬかるんだ道が嫌いなのだった。足は取られる、草履は汚れる。おまけに氷混じりの泥は、やたらに冷たいときている。
 北に向かわずとも、道はある。
 ここ日本橋が起点、京の都の三条の橋が終点の、海に沿った道がある。
 その道沿いにも、神はいる。
「よし」
 ぽん、と膝を叩き立ち上がりかけて、懐の重みを思い出した。
「おい、いつまで収まってやがんだい」
 子猫は、ふにゃあ、と眠そうに答えると、佐七の腹に軽く爪を立てた。
「あ、痛てて」
 慌てて摘み出すと、子猫は生意気にもよく尖った歯を剥き出しにして、大きなあくびをした。
「・・・こいつ」
 子猫一匹懐に、旅に出るのも乙かもしれない。凍えるような寒い夜、露の滴る野宿の木陰で、子猫は温石の役目を果たしてくれるだろう。
「二度と引っ掻いたりしやがったら、承知しねえぞ」
 鼻の先をつまんで揺すってやると、小さな前足で抵抗する。だが佐七の忠告は利いたのか、爪は出さない。
「行くか」
 佐七は、一晩を板の下で過ごしたことを人に気取られぬよう、すいっと柔らかな足取りで歩き出した。
 ぼん、ぼん、と橋の張り板が、こもった響きで佐七を迎えた。生まれて初めて渡る日本橋が、佐七の門出を誰より祝福しているように思える。
 彼方から、どこかの田舎侍どもが、行列を作ってやってくる。太刀持ちも所詮太鼓持ち、はち合わせは、たまらない。
 走り出すと、懐の中の子猫がきゅっと身を引き締めたのが分かった。そうっと支えてやりながら急いで橋を渡り終えると、ちょうど浅い冬の陽差しが、のんびりと川面を洗い始めた。

Copyright (C) 2000 大宮ししょう

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