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   江戸時代の関西って、結構マイナー。
   でも、よーく見ると、もしかしたら江戸より面白いかも。
           大宮ししょう Presents・Akinari in 2001
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                    2001年9月1日発行・創刊号
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「まずは、ご挨拶。」

ご購読いただき、有り難うございます。大宮ししょうと申します。記念すべき創刊号です。

元気に稼働中のサイト、「ちょっと近世・ほっと現代」と卒業論文から飛び出したメール マガジンです。

ここで、ご挨拶ついでに、ほとんど誰も知らないペンネームの由来などを。

小学校の頃から落語が趣味でした。聞くのではなく、する方。              

ネタは二つ、「桃太郎」と「ちりとてちん」だけでしたが、高校生になってもそのネタを振 り回していたら、ついたあだ名が「師匠」。で、京都の四条大宮に引っかけて、「大宮ししょう」となったわけでした。でも京都の出身ではありません。

次回は、「ちょっと近世・ほっと現代」の由来をば。

それでは、今後とも宜しくお付き合いのほど、お願い致します。逃げも隠れも致しませんので、ごゆっくりどうぞ。

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「蟹が横に歩くのは。」

『雨月物語』の作者、上田秋成(一七三四〜一八○九)をご存じの方は多いと思います。

彼は、別名を『余斎』といいました。実は呼び名は他にもあって『鋏狂人』、『蟹先生』というものでした。

秋成が蟹のような小さな生き物を慈しんだから、というような耳触りのよい話では、もちろんありません。病のために短くなった指を、蟹の爪に譬えたところから来たようです。

どうも、顔つきも蟹のように四角く、顎が横に張り、若い頃から猫背で、蟹なのは指だけではなく、性格も相当に堅くて融通が利かないところがあったようです。

江戸時代の関西の著名人の実像を知るには、秋成の随筆をまずは読むべし、という傾向がある、と大宮は見ていますが、実際かなり仲の良かった友人のこともあからさまに非難して憚りませんでした。

でも、へそ曲がりに横に歩く蟹は、よく見るとつぶらな瞳。

「躾の代わり。」

それにしても、『余斎』とは。

いささか拍子抜けの、控えめな名ではあります。

世を疎んで庵に籠もり文筆に生涯を捧げた清廉の文士、とでもいうようで、何だか嫌らしくさえあります。

そこで、種明かし。

秋成は生涯関西から出ることはありませんでした。そんな秋成が晩年を過ごした京都南禅寺周辺に、今でも残るのが『余斎』なのです。

つい最近まで、南禅寺内の駒カ滝に棲む蟹を虐めると『余斎さん』の罰が当たるぞ、と、お祖母さんや近所のおばちゃんに叱られたのだといいます。(1)

そんな言葉に効き目があったからには、秋成はおそらく実際に、癇癪玉の暴れるに任せて、蟹よろしく顔を真っ赤にして悪戯な子供に杖をふるうこともあったのでしょう。

蟹が岩の下に隠れるようにして寺の離れに棲みついている秋成のことを、口さがない京童たちは、まず格好のからかいの種にし、ご婦人たちはついでに、なりふり構わぬ恐ろしげな風貌をだしにして、子供の悪戯を封じようとしたのでしょう。

ほーら怖いおじちゃんが来るよ、という躾の仕方は、すでに江戸時代には確立していたようです。

現在では、そんな風にお年寄りをネタにして躾をするなんてもってのほか、と眉吊り上げて怒るもっと怖い人が出てきそうですが、実は秋成は、そんな怖いおじちゃんのわりには子供好きでした。

彼は医者の真似事もしていましたが、江戸時代のこと、盲腸でも亡くなることがありました。子供を持てなかった秋成が、養子にしても良いと思うほど可愛がっていた近所の少年が亡くなった時、彼は人目も憚らず泣き叫んだのだそうです。(2)

本当の子供好きとはどういうものなのか、ふと考え込んでしまうことが最近よくあります。

私自身が子供の頃、わざとらしい猫なで声や笑顔の大人が大嫌いでした。口先だけ優しい振りをして近づいて来ながら、こちらが嬉しそうにしなかったり子供らしく甘えたりしないと途端に不機嫌になる、失礼で頭の悪い大人が大嫌いでした。

あれが子供好きなら私は子供が嫌いになろう、とさえ思ったものでした。

秋成は確かに厳しい人だったでしょうが、礼儀作法はわきまえた人であったと思います。礼儀正しさに裏打ちされた言動に依るのなら、甘ったるい幼児語など使う必要もない。

本当の子供好きには、小細工は要らないのです。

「やっぱしそれでも。」

その当時、すでに京の都は千年の歴史を有していました。日本一の都会であったわけです。

それでも、怪奇な小説をものする秋成は、やはり奇人変人でした。

もとより、物書きというのは人から理解されにくい。

職人なら自分の作った箱枕や扇や金襴緞子などを見せればよい。作っている過程を見せることもできます。漁師や猟師なら捕ってきた獲物で、農民ならたわわに実った野菜や果物で、その腕を競うこともできます。

けれど、物書きはそうはいかない。文字を書いているところを見せたところで、何の意味もない。できあがった内容がどんなに素晴らしいと言ったって、所詮は墨を吸った紙切れ。その文字を読むことのできない人には、何の価値もないものです。

そして、曲亭馬琴が『羇旅漫録』で「秋成は世をいとふて人とまじはらず」とも述べたように(3)、秋成にはやはり、人嫌い偏屈臍曲がりな面がなかったわけではなさそうです。

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参考文献・(1)岩橋小彌太「上田秋成」有精堂出版 昭和50年10月

 (2)長島弘明・池澤夏樹 新潮古典文学アルバム20 上田秋成 1993年12月10日2刷

 (3)中村幸彦校注「上田秋成集」日本古典文学大系56 岩波書店 昭和63年5月13日第1刷

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いかがでしたか。緊張の創刊号でございました。

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   江戸時代の関西って、結構マイナー。
   でも、よーく見ると、もしかしたら江戸より面白いかも。
             大宮ししょう Presents・Akinari in 2001
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                  2001年9月15日発行・第2号
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「おひさしぶりです。」

ご購読いただき、有り難うございます。大宮ししょうと申します。

「ちょっと近世・ほっと現代」の由来をば。

これは作って1年半ほどになるサイトの名前です。原稿はだいたいできていたので、内容で悩むことはありませんでしたが、問題は名前です。

近世の関西の中心と言えば京都。ですから最初は、京言葉で責めようと思っていました。

ほっこり、まったり、はんなり。並びが綺麗です。けれど、これらの言葉はもうすでに他の方が使われていますし、第一、私は京都の出身ではないし京都在住でもない。かといって、「さいでんな関西」とか「ちゃいまんねん江戸時代」では、何のことだか分からない。

近世の関西地方が中心ではありますが、現代社会についてもあれこれ書いています。ですから、ちょっとでも、それが分かるような名前にしたい。

お。ちょっと。これは使える。ちょっと来なさい。ちょっときなさいちょっときなさい、ちょっと近世。ほおっておけないほおっておけない、ほっと現代

日本語の特徴である平仮名と漢字交じり、小さい「ょ」と小さい「っ」が、ぽつぽつと並びます。自画自賛ですが、実は結構気に入っている名前です。

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「遠いところからわざわざやってくる。」

さて。

東人、つまり関東人である大田蜀山人は、『小春紀行』にこう記しています

・・法師の行くに問へば、我がやどりにおはすと言ふもうれしく、扉をたたきて入れば翁喜び迎へて、しばらく物語るに、日もはや暮れんとすれば、立ち出づる。(1)

お坊さんが歩いているので訊ねてみると、「その方はうちのお寺に棲まわっていらっしゃいますよ」と言うので足取りも軽く扉を叩いてお邪魔すると、翁は喜んで迎え入れてくれた。しばらくの間のつもりだったのに話は弾み、あっという間に日が暮れて、挨拶もそこそこに出立したのだった。

蜀山人は、全国あちらこちら渡り歩いては手当たり次第に門を叩いた、好奇心の権化のような人物であったようです。そのひとなつっこい性格は秋成のお気に召したようで、二人はしばしば対面しています。

鶉居と呼ばれた、秋成の庵でのささやかな、けれど心休まる会合です。

・・旅の途中の蜀山人はいつも慌ただしく訪れ、草履の紐を解くのももどかしく、玄関先から大声で話し掛けてきます・・蟹先生におかれましては、その後病の具合はいかがでしたか。

秋成は秋成で、いきなり訪ねてくるとは不作法な奴、ええ、そないな大声を出さんでも聞こえとるわい、相も変わらずやかましいのう、と憎まれ口を叩きながら、わき上がる喜びは隠せない。早々に茶の用意・・といったところでしょうか。                  

どうも、気心がいったん知れてしまうと、秋成は話し好きの好々爺へと姿を変えたらしいのです。

「貸してね。」

そのことは、その多方面に渡る著作の数々からも伺い知る事ができます。

若年期の『諸道聴耳世間猿』や『世間妾形気』のような軽妙な語り口の浮世草紙の後に、『雨月物語』に代表される中国の白話小説からの取り物語を刊行し、加えて源氏物語論である『ぬば玉の記』も書き、さらに『書初機嫌海』や『胆大小心録』などの随筆風の周辺雑記物、俳諧論である『也哉抄』、『漢委奴国王金印考』のような時代考証についての著作も残しています。

これだけの著作を成すためには、やはりそれ相応の参考文献が必要です。

秋成の生きた時代、本は買うものではなくもっぱら借りるものでした。

このことは、当時の日本の印刷技術の遅れをいうものではありません。浮世絵や錦絵に見られる日本の印刷技術は、ロートレックやゴッホなどに強い影響を与えたほど高いものでした。

技術と同時に芸術性も高い木版画は、しかし悲しいことに大量生産がかないません。二百も版を重ねると版の表面がすり減って、使いものにならなくなる。

さらに世界に共通した事項ではありましたが、紙そのものが当時はまだまだ非常に高価でした。

京や江戸に本屋が林立していたことからも分かるように、本の需要は高かったにもかかわらず、本の供給は充分とはいえない状況にありました。

秋成は、富豪の生まれではありませんでした。研究に必要な文献は、人から拝借しなければならなかったはずです。そして、貴重な本を借りるためには、貸し手の信頼も得なければなりません。

そしておそらく、主な貸し手は木村蒹葭堂であったろうとされています。醸造家坪井屋の長子として生まれた蒹葭堂は、家業を番頭に任せ、自らはその経済力を背景にして学文の世界へと没頭していった、秋成と同じ穴の貉でした。

「やっぱしそれでも。」

秋成は『金砂』六で「いつはりも真言もよしや世に流れよどめるほどを書きもとどめん」と述べました。

本当のことも偽りごとも、さらさらと流れ行く美しい調べも、底に沈み澱む醜いことも、世の中に流れ来ることどもを、全て書きとどめていこう。

秋成にとって世は、決してただ疎むのみの存在ではありませんでした。それが澄んでいようと澱んでいようと、秋成は、世の流れから脱することはありませんでした。

秋成自らも『胆大小心録』(以下胆大と略)一三九で「日夜枕に來たる人あり」(2)と述べています。蜀山人や蒹葭堂以外にも、物好きは多くいたのです。

つまり、秋成と同じ穴の貉、これが、結構あちこちに棲んでいました。世の中、狸の穴だらけ、だったのです。

そんな京の町を、私も、秋成と一緒に歩いてみたい、と思います。

いや、秋成を真似て左京区あたりを杖を振り回しながら歩いてみよう、というのではありません。秋成の著作に現われる人々の姿から、ともすれば忘れられがちな江戸時代の京の薫りを、わずかでも嗅ぎとってやろう、というのが、すなわち大宮の目論みなのです。

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参考文献・(1)美山靖校注「春雨物語・書初機嫌海」 新潮日本古典集成第三十六回(新潮社刊昭和55年3月10日発行)

(2)中村幸彦校注「上田秋成集」日本古典文学大系56 岩波書店 昭和63年5月13日第1刷

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いかがでしたか。無事第2号も発行できました。

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