春。春の語源は、花の蕾なぞが張り詰めて空気も生き物の匂いを貯えて膨らむから、というのは有名です。 確かに、春はいろいろと張り詰めます。この頃では花粉症で鼻が腫れていらっしゃる方も多いのでは。新しい環境に適応するためには気持ちも張り詰めます。新しい出合いに心も張り詰めるし。 あっちこっち、張り詰めまくりです。 けれど、春眠暁を覚えず、とも言うように、春は緊張が緩む時期でもあります。 気温が高くなるにつれ、朧月に誘われて鳥や獣も夜更かしし始めます。冬のように目くじらを立てて餌を掻き集める必要もなくなりました。 水ももう冷たくはありません。魚が飛び跳ねているのは、氷の下に閉じ込められてうんざりしていたからです。生まれたての仔犬が、一人前に他の仔犬の後足に噛みついたりしています。雀は自分が最初に薔薇の蕾が開くのを見つけたのだと得意げだし、大きな岩に張りついた苔の緑も映えています。 川の流れが下るにつれて、春は深まり、色濃くなっていきます。 流れ流れて。季節の流れを、一本の巻き物の中に納めた画家がいました。 長澤蘆雪(ろせつ)は、淀川のすぐ近くで育ったからでしょうか、魚を描かせると飛び抜けた腕を持っていました。 特に、鯉。大きくて黒い野生の鯉は、春の流れの中でやや痩せ気味の体を弓なりに反らせて、歌舞伎役者ばりの見栄を切ります。水の中なら速いのだぞと、亀が追いつこうと首を伸ばします。 鯉の尾のあたりで水面を切るように泳ぐのはウグイ。紅い線が走っているから、きっとそうです。洒落者で通っているウグイは、乱暴者の鯉のことは避けて通るようです。 無鉄砲にも、寝起きで不機嫌な鯉に話しかけているのは源五郎鮒。鯉の短い髭が、ぴくんと動きました。 それより先、雪解け水をかぶった笹の間で群れているのは鮎。いや、鯰もいるようです。陽気に浮かれて、水面近くまで浮いてきたのです。 咲き初めの藤は、自慢の枝をのの字に垂らして蝶を誘い、肩には頬白を留まらせています。 巻き物の中に描かれているのは、一日の時の流れ。日は曙に明け、朧の月に終わります。月に重なる枝の紅葉は、若く紅い葉のようにも見えます。 けれど、よく見ると、一年という、葉にとっては厳しく長い一生を終えるまさにその時。虫に喰われ風にちぎられながらも、なんとか枝にくっついていられた。ああやっと散る頃合が来た、という安堵が透けて見えるのです。 春の一日と見えた、その一日は、秋の寒さを見せて終わっています。 すぐにやってくる激しい夏と、春によく似た秋と。春の季節の予感のすべてを、その穏やかさの中に秘めているのです。 どこへ行く。春と対になるのは、秋でしょう。激しい季節に挟まれた春と秋。 太陽の角度が似ているからでしょうか、気温が同じくらいだからでしょうか、私は時々、春と秋を間違えます。 桜の葉が紅葉しかけているのを新緑と見誤ったり、新しく伸び始めた枝の先に、冬の訪れを感じたりします。 暑くも寒くもない季節。食べ物が豊かで、生きていくのも容易い季節。 激しい暑さや厳しい寒さの中では、生き物は生命の維持に集中します。とにかく、生き延びなければ。あるいは殻に閉じこもりあるいは冬眠しあるいは体の色を変え、生き物は生きようとします。 次の春まで、次の秋まで。そしたらなんとかなる。なんとか持ち堪えよう。 春や秋には、そんな緊張感はありません。ぷらりぷらりと、気軽な服装で出歩いても大丈夫。風も弱いし陽射しも程よい。 けれどなんだか、もの寂しいような、気の抜けるような取り残されるような、物足りないような歯がゆいような。 春と秋。気持ちはいいけれど、ずーっとこのままだと嫌だなあ。ずっとこのまま、シャツにジーンズで汗もかかずにいられるのは。 気温の変化に対応しようと日陰に逃げ込んだりぶるぶると震えたりするとき、ああ、生きている、と感じます。それは季節の中だけでなく、一日の中でも感じること。お腹が減ったり、髪が汚れて気分が悪かったり、大して歩いてもいないのに足が痛かったり。 太陽が月に変わるように、雨が雪に変わるように、それは、ごく当たり前の事のように見えて、けれど、ただ流されているのではなくて。 一日の流れは、季節の流れのように大きくはないけれど、確かに渦を巻き滝となって流れています。時には淀むことも濁ることもありますが、それは一時。朧の月、もしかしたら爪のような三日の月が、一日の終わりを、うっすらと照らします。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ いかがでしたか。神田川にはウグイがいるそうですね。JR水道橋駅の構内においてある水槽で、見たことがあります。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ 猿。「猿でも分かるほにゃほにゃゃ」という謳い文句をよく目にします。あまり好きではありません。猿程度の頭でも分かる、ということなのでしょうがあんたは猿以下だ、と決めつけられているようで、何だか気分が悪い。 100倍どうとかになるほめほめ、とかいうのもそうですね。100倍にしないとあんたには分からないだろう、という意味なのでしょうか、わざわざそこまでして貰わなくて結構。 モノカネヒト、と物や金と括られるのも好きではない。第一、金、と呼び捨てるのは行儀が悪いでしょう。勝ち組、というからにはいずれは負けて自己破産するのかなあ、と思うし、ギリギリのところでの決断、と聞かされると、そんな決断に従っていいものなのかなあ、と思うし。 この頃は、改革とか改善とか是正とか言う言葉ではなくて、「刷新」という言葉がよく使われるのだそうです。 読んで字の如し、刷って新しくする。ということは、版は同じなわけで、紙だけ新しくしても中身は同じなのかなあ、と。 これは単なる勘ぐりではなく、人に使われるものであるところの言葉には使う人の真意が浮かび上がります。真意が浮かべば品位も現れてしまう。 それはどんな言語を使っていてもそうなのです。たとえ外国語を話していても、その人が選び取る言葉の種類によって、その人の品格はいやが上にも明らかになってしまう。 私たちはそれを知っていて、だから英語をはじめとする外国語が苦手で、だから猿でも分かる、と言われても猿であることに甘んじてしまっているのかもしれません。 それは猿。前回に引き続き、長澤蘆雪(ろせつ)の話になります。 魚を描かせると飛び抜けた腕、と書きましたが、動物を描かせると飛び抜けた腕、ということにします。 何を隠そう、私が蘆雪の絵に出会ったのは、彼がまだ円山応挙に入門して間もない頃に描いたと言われている、牛の絵でした。 それは、応挙の他の弟子達の絵もたくさん並ぶ展覧会でした。白銀に浮かび上がる鶴や、すべての季節の色を織り込んだ羽色の雉、瑪瑙のような艶の錦鯉に、みどりの黒髪を湛えた美女、といった画題がきらびやかに勢揃いした中で、私の足を引き留めたのは、最も地味な、牛の黒い背を太い筆使いでざくざくっ、と簡潔に描いた、蘆雪の絵でした。 それは飼われている牛にしてはやけに逞しい、野生の牛というものがあるなら、まさにそれ。角が小さいので若い牛のようです。でも顔は見えない。牛は荒い坂を登っているのでしょう、骨が浮かぶほどに背中の筋肉を張りつめて、ぐっと首を突き上げています。 彼の名前の下には、このような解説があったと記憶しています。 「長澤蘆雪は、応挙の弟子の中でも特に優れた腕を持っていましたが、放埒な性格のため他の弟子との諍いが絶えず、後に破門されたと伝えられています。」 破門。 格好ええやないのー。 汗の飛沫の飛び散るような絵に比べたら、優等生ぶった他の弟子の絵は、床の間に飾られるのにはふさわしいけれど飾られるだけ。お客のお世辞のおかずにされるだけ。 けれど、彼の絵は違う。生き物の、生きていることそのものが、ここにはある。 破門がなんだ。師匠に可愛がられる画家なんて、ごますりの太鼓持ち。太鼓なんて持ってる暇があったら、筆を持って描きまくれ。いいや、紙なんてなくても絵は描ける。人は、岩に石のかけらで絵を描いてきたのだ。 その野生の片鱗の色濃く残る絵こそが、本当の絵。生の絵。 そして、何を語るのか。蘆雪は、猿もよく描きました。 兵庫県北部、香住町の餘部鉄橋の下にある大乗寺には、応挙一門の絵が多く残っています。 北棟の二階に据えられた蘆雪の絵は、岩に群れる猿の図。 海から吹き付ける風のせいなのか、猿はどれも年老いて見えます。山にいるはずの猿が、なぜこんな海の近くまでやってきたのか。海の魚でも捕るつもりなのか。海藻でも拾うつもりなのか。 絵の面白さは、見るたびに印象の違うところにあります。 冬の吹雪の季節に見たならば、彼らは追われた群に見えたでしょう。けれど今、桜の季節を迎えてほんのりと暖かみを増した季節の中では、腹にしがみつく小猿が目に付きます。海が怖いのか、小猿はしっかりと母猿の腹にとりついています。 猿は子供の象徴だとか。怯えと好奇心に振り回されている小猿から、生きているものが少しずつ身につけていく、生き物らしさが垣間見えます。 猿はあくまでも猿ですが、とても人間臭い。生きているという手触りがある。その彼らの分かることならば分かってもいいかな、と思えるのです。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ いかがでしたか。蘆雪は、この絵を完成してすぐ亡くなっています。 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それからしばらくして、その友達の名前を母親が口にしたことがありました。体を壊して高校を中退したとか留年したとか、どこやら嬉しそうに喋る母親の顔の向こうに、私はレンギョウの黄色を見ていました。 垂れる乳。ツツジの花も、今が盛りです。漢字で書くと躑躅。髑髏、と、何となく似ていますね。ツツジの語源は、蕾が女性の乳の先に似ているから、という説と、花に粘りがあって、ツキツキてジッとつくから、などいろいろあるようです。 ツツジの花を好んで描いたのは、長澤蘆雪(ろせつ)。 大原女のかざす籠の中、犬が群れ遊ぶ岩陰などに、ひっそりと、けれど印象的に、朱色の花が描かれています。 その花は、小さいけれど粘りがあり、日陰でも岩場でも逞しく、言い方を変えれば、がめつく図々しく咲きます。古くから栽培されているのは、とてもよく増えて丈夫だからです。 乳はその役割を終えると垂れてくるけれども、母親の中に棲む母親は、そう簡単に枯れたり垂れたりはしません。 確かに乳とそっくりの、あまり注視したくない、けれど何故だかじっと見つめてしまう、ツツジの花が全部萎れて崩れて解けるのは、まだ少し先のことです。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ いかがでしたか。ちょっとホラーしてしまいました。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ 影。影は、光のあるところには必ずあります。全く影のない世界というのはありえない。 ならば、その逆はどうでしょう。全く光のない、影だけの世界は。 影だけの世界なら、それはすなわち暗闇の世界、ということになるのでしょうか。自分の鼻の先も見えないような世界。それこそが影の世界なのでしょうか。 けれど、影が単に光の差さない場所、という定義だけであって、光がなければ存在もしないものだというのならば簡単ですが、影という言葉には、光の脇役と言うだけでなく、他にも様々な意味があります。 たとえば、面影、というときの影。それは、光に対応するものではなく、存在の残り香のようなもの。記憶や想い出も似て、けれどもかなり曖昧で、しかも時として勘違いや思いこみで美化されてしまいがちなものです。 たとえば、翳り、というときの影。人気に翳りが差す、というように悪く使われがちですが、直射日光の当たらない、人目に晒されない陰に入って疲れを癒すことも、時には必要です。 光溢れる世界。希望溢れる世界。 本当に、そうでしょうか。光さえあれば、希望があるのでしょうか。あまりにも強い光、強い紫外線には細胞の情報まで壊されてしまうように、目のくらむような光の中には、安らぎはありません。 重なる影。重なる影を表すのに最もふさわしいのは、墨の画です。 雨の中で薄く、また濃く重なる松の影を描いたのは、もうみなさんお馴染みですね、長澤蘆雪(ろせつ)です。 雨の日、空はたくさんの湿気を含み、重く、分厚くなります。何だか目の中にも一枚膜が張ってしまったようで、視界がぼうやりと頼りない。 髪も湿って重く、脳味噌やきっと頭そのものも晴れた日より重く、だから肩も重く、気分だって重い。 けれど、実は気圧は低いので、体には悪くない。気圧が高すぎると、細胞が活性しすぎる、つまり体に良くない細胞も元気になって、病気が出やすくなるのだそうです。 つまり雨の日は、ただ重いのではない。休みなさい、すこし肩の荷を下ろしなさい、とお天道様が、わざと肩に手を置いて重くして座らせようとしているのです。 まあまあ、そうせかせかしなくても、こんな天気だと、慌てて走っても靴が濡れるだけ、下手をすると転ぶだけ。 普段は見ることのない山の景色でも見上げて。いや、獲物を狙う鷹のように目を凝らすのではない、ぼんやりと、雨の中に視界を散らすように。 雨にしみこみそうな松は、影です。影に見えるのは、光が雨に吸い取られて、弱く柔かくなっているから。かすんだ目の中で、影はさらに重なって、二重三重に、けれど決して濃くはならない。 峠の向こうに消えていく、歩き過ぎていくような松の影を、今日は黙って見送りましょう。 光の許。かつて光の許にあり、今は影の中に落ちてしまったものに、銀行があります。 蘆雪の松の画が所有されているのは、まさにそんな銀行の一つと関係の深い、兵庫県西宮市にある美術館です。 今、その美術館の所有者が誰になっているのかは知りませんが、営業はしているようで、ポスターをよくみかけます。 松でしかあり得なかった銀行は、雨の中、さて、これからどこに行こうとしているのでしょうか。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ いかがでしたか。和歌山県立美術館で蘆雪の展覧会がありましたね。 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ |
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