その時、何故だか私は運動場にいて、折り畳みの椅子がぼつんと置かれているのを不思議に思っていた。

もしかしたら、陸上部の練習用かも。タイムを取る人が座るために置いてあるのかも。私は運動部ではないので、その辺のしきたりはよく分からない。

私から見ると椅子に向かって走っているように見える一団。彼らはみんな後ろ向きに走っている。体の後ろの筋肉を鍛えるためだろうか。ああいう練習方法もあるのだな。

けれど、あれだと椅子が見えないから、勢い余って椅子とぶつかったりはしないのだろうか。

そんなはずはない。ちゃんと顧問の先生もいるし、第一、私からは椅子に向かって走っているように見えても、実際にそうだとは限らない。

だが、私は椅子から目を逸らせなかった。

絶対にぶつからないと、どうして言える。後ろ向きに走っているのだから、真っ直ぐ走れていないのかも知れない。こちらからは真っ直ぐに見えても、少しずつ蛇行しているのかも知れない。

いや、そんなはずはない。

なら、どうする。椅子が邪魔だと怒鳴るか。その声に驚いて転んだらどうする。でも、もしこのまま椅子に突っ込んだら。そんなはずがない、あんな大きな椅子が、見えていないはずがない。

果たして、彼らは椅子に突っ込み、一人が腕の骨を折った。

折ったのは同じクラスの、登校したらまず何気なく出席を確認する、そういう友人の一人だった。

責任を感じても、どうなるものでもない。

でも、私はいつも以上に彼とくっついていた。折ったのは右手で、がっちりギブスがはまっていて、なのに彼はすぐ左手で上手を字を書けるようになって、食事をするのにも誰の手も借りなかった。

もともと彼の、物事にいちいち動じない、するべき事はきっちりする、文句を言わない、そういうところが好きだったから、同情するつもりはなかった。

それでも少し、ちょっとくらい迷惑を掛けてくれてもいいのに、とかすかに思った。そうすることで私は自己満足できるような気がした。

彼はそんなことは望んでもいないし、私も同じ中学生なのだから、何ができるわけでもない。

いつものように彼も含めて仲のいい友人と固まって、永遠に終わらない鉛筆ゲームをしながら、 やっぱり何だか少し、物足らなかった。

そんなことを思い出したのは、テレビで「向田邦子の手紙」というドラマを見たからだ。

それは私が生まれるちょっとだけ前の頃の話で、向田邦子本人が書いた話ではなく、向田邦子本人の話だった。

病に倒れた恋人の家に毎日通い、生活の面倒まで見る。いかにもあの時代の働く女性らしい、かつて男がしてきたことをそのままなぞった、手探りの他己犠牲で、その恋は成り立っていた。

彼女が亡くなったのは私が高校生の時で、「向田邦子って誰?」と言って、友人に猛烈にバカにされた。しょんぼりして家に帰ってふと見ると、読んだ覚えのある文芸誌や単行本の中から、彼女の名が次々と出てきた。

姉らしい可愛らしい恋。それもいいだろう。昭和三十年代の後半、三十代の女性が結婚せずに働いているというだけで罪悪だった時代。それは、いわば贖罪のための恋。

でも、私はそれを、申し訳ないが、おぞましいと思う。

山口智子という、なんとも行儀の悪い女優が演じていたせいもあるのだろうか。食べたお菓子の粉をぱんぱんとはたき落とす仕草がふさわしい、そういう女優のせいもあるだろうか。他のドラマでも、川魚の佃煮か何かの中に女優の長い髪が入るのを見たことがある。もちろんそれを女優は手づかみで食べた。手がベタベタするだろうが。ああ、汚い。

しかし向田邦子は働く女性のシンボルとなり、その恋は美しい物として語り継がれる。

彼女は、それを望むのだろうか。

向田邦子の手料理、という本を、開いてみる。きりっと三角巾をした彼女の、それは頑固そうな口元に、問いかけてみる。

それは、あなたにとって、真実の恋だったのですか。

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