私の生まれた街の西隣の町には、日本で最も美しいといわれる城が、駅の真正面にどどんと建っている。

昔からの城下町には美味しい蒲鉾や派手すぎない子供服なぞが売られていたし、城を取り囲む公園には芝生の広場があって、小さな動物園まであったから、昼前にぶらりと出かけて夕飯までに家に戻るにはちょうど良かった。

母と、私と妹の三人は、いつものように明るいうちに帰ってくるつもりで家を出た。もう三十年以上前のことになるのに、その日のことだけは今でも鮮明に思い出せるのは。

こういうわけだ。

広い街路を誇るその街は、店の構えもゆったりしていて、紙細工の玩具などが綺麗に並べられていた。

ちょうど自分の目の高さにある千代紙で出来た箪笥やら風車やらを、妹はじっと見つめては立ち止まる。決してねだったりすることはないが、ただ吸い寄せられるようにして、立ち止まる。

それが妹のいつもの癖で、放っておくといつまでもそうしているし、ふらふらと来た道を戻ってしまうことも何度かあったから、私も母も、気を付けていた。

つもりだった。

なのに、妹はいなくなった。

来た道を走って戻り、名前を呼んだ。妹が魅せられていた紙細工の店の前まで戻って、路地を覗いた。

いない。

母は、すぐ大通りに出て、警察に届け出た。服装は黄色と緑のツーピース。おかっぱ頭の、女の子。

母は何も言わなかったが、そのまま二人で駅に向かって歩いた。お城に背中を向けて歩いたら、電車の駅に出るからね。何度もそう言い聞かされていたから、妹はそれを思い出して、駅に向かって歩いたかも知れない。

けれど。

そうではないかも知れない。

ひとさらい、という言葉が、まだ生きていた。一人で遠くに遊びに行っては駄目よ。知らない人に話しかけられても、ついて行っては駄目よ。お父さんが怪我をしたからとかなんとか言われても、絶対に車に乗ったりしては駄目よ。

妹は、知らない人に声をかけられたからといって、のこのこついていくような馬鹿ではない。

けれど、私たちとはぐれて心細くて、それで、一緒にお母さんを捜してあげる、などと言われたら。

もしかしたら、このまま会えない?

生まれて初めて、背筋が凍った。怖いものや恐ろしいものを見たわけでもないのに背筋が寒くなるのだと、その時初めて知った。

駅が見えてきた。新幹線も止まる大きな駅は、呑気に私たちを迎える。

白々と明るい、ガラス張りの、ホールの真ん中、青いプラスチックの椅子の間に。

妹が、いた。

おねえちゃん、と叫んだ妹の泣き声が漏れないように、両手で彼女の頭を胸に抱え込んだ。

二度と、離すもんか。

兄弟であると同時に一番の親友である弟は、遠い遠い国で、別れたときの倍の年齢になって、戻ってきた。

そんな弟が口にしたのは、生まれたわけでもない祖国のことで、だから兄が逆上したのも、分からないではない。

けれど、弟は戻ってきた。生きていたのだ。私の妹が、一人で駅まで歩いてきたように、連れ去られた海を渡って、再び戻ってきたのだ。

そう誰でもが、できることではない。

話を母から聞いた父は、「よく一人で駅まで戻ってきたな」と涙ぐんでいたのだという。

中国から引き揚げてきた父は、人が別れることを、おそらく私より遙かに知っていたのだろう。幼いものの上にも容赦なく降り注ぐ戦火を、長崎で育った父は、知っていただろう。別れがいかに人の心を蝕むか、幼い頃に母親を亡くした父は、知っていただろう。

実の弟の死の記憶さえない私は、それでも、あの城に背を向けて歩いた道の遠さを、知っている。雲のように沸き立ったあの恐怖を、知っている。

そして、絹の髪に包まれた妹の頭の暖かさも、知っている。

彼の国の人が知る恐怖は、何だろう。干魃の恐怖、飢えの恐怖、粛正への恐怖、隣人への恐怖。他国への恐怖。

おそらく、私も、そして戦争中は子供だった父もほとんど知らない、国そのものへの恐怖。

想像してみるが、とても難しい。

この国は、情けないことも多いけれども、ここに住む人々には、時々、たまに、ほんの少し、よくやったなあ、と感心することもある。いいとこもあるな、まだまだ捨てたもんでもないな、と、思える時もある。

彼の国の人々は、どうなのだろうか。

恐怖につぶされそうになりながら生きている人々は、世界で一番豊かな国の一つで、年中同じ温度の中で生きる人々にも、恐怖があることを、知っているだろうか。

そして、その恐怖を乗り越えようと闘う人々がいることを、知っているだろうか。

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