小学校では、よく縦笛を吹かされた。普通のより、ふたまわり大きなアルト笛が好きだった。全部の穴を指でふさいで、加減しながらでないと低い音の出ない、そういう単純な構造のくせに繊細なところも好きだった。

だから、五年の時、六年生の送迎演奏では迷わずアルト笛の方を選んだ。下の方、つまり低い方は、合唱でもピアノでも何でも大抵の場合メロディ担当ではないので、演奏そのものはとても地味だ。けれどピーヒャラのソプラノ笛に飽き飽きしていた私にとって、笛の中で低く響く音はとても快いものだった。

小学校も五年になると、いい加減いらいらしてくる。幼稚園と合わせて六年間同じ所に通って、同じような教室で同じような友達とつきあっていると、いい加減、だれてくる。

ああ、一体いつまで私はこんな所に通っていなければならないのかなあ。中学生になっても多分同じような顔ぶれで同じようなことするんだろうなあ。高校だって多分そうだろうし。ああ、まだ十年近くあるじゃないか。

窓枠に肘を乗っけてそんな事を考えていたら、Nが近くに寄ってきた。何が面白いのか知らないが、暇さえあれば私にいちゃもんを付けてくるやつだった。

それがどんな内容だったか、もう全く覚えていない。とにかく下らない、意味のないことばかりだった。学級会での私の発言がどうだとか、靴の履き方がどうだとか、そんなことだったか。いや、思い出せない。なにしろ下らないので、相手にはしなかった。

けれどその時折り悪く、私は自分の将来を深く憂えていたので、ぽろっと泣いてしまったのだった。

それは小学生なのに未来を憂えたりなんかする自分にちょっと酔っていたからなのだが、Nにそんなことが分かるはずもない。

私が泣いているのに気づいて、さすがにNは一瞬とまどったが、すぐさまこう叫んだ。

「こいつ、泣いとる、泣いとる、鬼の目に涙や」

ほう、そんな言葉を知っていたとは。私は涙をぬぐいながら苦笑いした。

そんな小学校生活もあと一年と少し。ちっとも名残惜しくなどない、ほこりっぽい運動場。遅れてきた団塊の世代を抱える私たちの小学校は、千二百人の生徒と、ぐらぐらするプレハブ校舎と、百年近い歴史と戦火に耐え抜いたが雨漏りで屋根が半分腐ってしまった講堂を誇っていた。

砂でざらざらする口元をぬぐいながら、それでも本番の演奏の日を迎えて、準備は万端だった。

またNが来た。出席番号が近いからだ。いっそイロハ順に並べばいいのに。どうせNは私に面と向かっては何も言えないので、背中を向けて無視していた。

だが。何かが、ちくっと私の勘に障った。それは、新鮮な桃の皮に触れたときのように、思いがけない深さで掌に残って、しつこい痒みが生まれた。

Nが何を言ったのか、どうしても思い出せない。思い出せないが、とにかく気に障ったのだけは確かだった。

その証拠に、私は振り向きざまにNの頭を、アルト笛で殴った。

笛の先、吹く方から三分の一が飛んで、地面に落ちた。そんなに遠くには飛ばなかったので、私はすたすたと歩いてそれを拾い、もとに戻した。吹いてみる。斜めに折れたので、息が漏れた。演奏は、最低だった。

Nの頭のどこに笛が当たったのかも、覚えていない。血が出たのかどうかも知らない。たぶん大したことはなかったのだろう、先生に叱られた覚えがないからだ。

けれど笛はやっぱり折れていて、母親に瞬間接着剤を貰う代わりに、折れたのだと嘘を付かなければならなかった。折ったのではなく。

接着剤が白い蛇のようにこびりついた笛を、私はそのまま高校を卒業するまで使い続けた。吹くたぴに必ず、Nの頭から笛に伝わった反作用が、私の手に蘇った。

Nにすまないとは、かけらも思っていない。痛かったかな、とすら思わない。そんなことを思う必要さえないと、今でも思う。

ただ。

あの瞬間、私はひたすら、Nを黙らせたかった。黙らせたい、ただそれだけだった。あれは、殺意に似ていた。Nを消したかった。それだけだった。

そんなことのために、大事な笛を傷つけてしまった。丁寧に扱っていたのでほとんど傷のなかった笛を、折ってしまった。長い間練習した曲を、本番で吹けなくしてしまった。

笛を、武器にしてしまった。

あんなことは、二度とするまい。あんな、我を忘れて暴力をふるうようなことは。

相手が傷つく傷つかないは、問題ではない。そんな浅ましいことをして傷つくのは、私自身なのだ。折れたのは、私の誇りなのだ。私は、真っ先をそれを考えなければならなかった。そうなることを予測しながら、行動しなければならなかった。

実際Nは本当に黙ってしまって、六年も同じクラスだったはずだが、うるさいと思った記憶はない。もともと、どのみちすぐに忘れてしまうようなことに、腹を立てる必要もなかった。笛を折ってまで、黙らせることなどなかったのだ。

それから私は、手に何か持っているときに腹が立っても、それをとりあえず手から離して、それから怒ることにした。笛を吹かなくなっても、笛に残った白い傷を思い出して、自分を戒めることにした。

手にしたもので、握りしめたもので、自分の人生を折ってしまわないように。怒りを殺意に増幅させて、しまわないように。

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