それは昭和四十年代の出来事だった。それだけは確実である。

小学生だった私は、図書室に向かっている。高度経済成長と同じ勢いで小学校は生徒数を増やし、図書室も音楽室も、教室の三分の一もプレハブだった。

渡り廊下とは名ばかりの、日焼けして反っくり返った簀の子を走って渡りながら、私は図書室に向かっている。

図書室の本は、寄付によるものだったという記憶がある。学校の北を走る国道で車に牽かれて亡くなった男子生徒の父兄の寄付だった。図書室の壁には亡くなった生徒の名前が張り出してあった。「ああ○○○○君」と書かれていたからたぶん男の子だったのだろうが、図書室にはしょっちゅう出入りして、その張り紙を見上げていたはずなのに、彼の名前をどうしても思い出すことができない。

源氏物語を読もうとして挫折した私が次に手に取ったのは、原爆の本だった。

そのころの本の表紙は今のようには美しくなく、大抵は単色、せいぜい三色というところだった。妙に黒っぽいその表紙には、三十万人、という数がしつこいほどに繰り返されていた。

戦争の話は、両親から少しは聞いていた。たくさんの人が亡くなったことも、広島と長崎に原爆が落とされたことも、聞いていた。けれど、その戦争が終わったのが昭和二十年で、まだ終わってから三十年経っていない、というのは、その時に初めて知った。

どうしよう。どうしよう。

世界中のあちこちで、まだ戦争が終わっていないのも知っていた。戦争の火がまだ消えていないことを、知っていた。

どうしよう。三十年も経っていないのだもの。戦争の仕方を知っている人が、まだたくさん生きているのだもの。

もうすぐまた、戦争が始まってしまう。

ふらっ、と図書室から出て仰いだ空は、鉄筋の校舎とプレハブに挟まれた空は、真っ黒だった。


今思えば、空が黒く見えたのは急に暗い所から明るい所に出たからだったのだが、そのときはまさに、「ああこれが始まりの合図」だった。

両親に聞かされた戦争体験の中で、私にとって最も恐ろしかったのは灯火管制の話だった。夕食の時間に、灯りに黒い布を掛けて食事しなければならない。そうしないとそこに住んでいることが敵の飛行機から見えて、空襲されるから。

怖かったのは、爆弾が落ちてくることではなく、暗いところで食事するのはうんざり、ということと、自衛手段がその程度、ということだった。人が住んでいるかいないかなど、昼間にさっと下見すれば分かることだし、いずれにせよ、風のある日に広い範囲で空襲すれば、燃えやすい日本家屋だから延焼するのは時間の問題だ。

そんな敵のことを、けれど両親は誉めるのだった。京都や奈良に空襲しなかったのは、古い寺院や遺跡があるからで、敵は戦争しながらでも日本の文化に理解を示していたのだ、と。

その話に、私はずっと引っかかりを覚えていた。古都の寺院は大事なのに、原爆は落とすのだな。人の命は、寺院や遺跡より軽いのだな。もしかしたら敵は、人を全部殺して、日本を国ごと博物館か美術館にするつもりだったのだろうか。

それはGHQの差し金だったことを、戦後五十年経って知ることになる。実は京都は原爆投下の候補地で、いずれは奈良も燃やしてしまうつもりだったのだが、日本では戦時中から、古都は文化財が多いから空襲されないのだ、という噂があった。この噂は真実なのか、と質問した新聞記者に、イエス、と占領軍の将校は答え、かくして古都への空爆自粛の伝説ができあがった。

両親は、食糧が不足した話や疎開児童がいた話はしてくれたが、どうして戦争が起こったか、は教えてくれなかった。母は、父は中国に疎開していたと言ったが、疎開していたのではなく、上海の日本人租界にいたのだということも、ずいぶん後になって知ることになる。

つまり、戦争を知っているはずの人、私の両親のように昭和十年生まれ、旧憲法の元に生まれた人々すらも、実はそれほど知っているわけではない。

そして、あんな見え見えの話をころりと信じてしまった人々、知っているつもりで実は何も知らない人々、そして自分が知らないということに気づかないままでいる人々が生きている間は、きっとまた同じ過ちを繰り返すのに違いない、という私の考えは、決して間違いではない。

次へ

menu

Copyright (C) 2001 shishow