私が生まれた街には、川の名前が付いている。その川は、市の真ん中を貫いて南の海に流れ出している。高度経済成長期には最も汚された川の一つで、公害問題を取り扱った本の中で、淀川などと並んで黒く太々と塗りつぶされていた。

私はその川より4キロほど東に離れた住宅地で育った。田圃をつぶして建てられた住宅街の静脈代わりに、農業用水路が張り巡らされていた。住宅地の北にある池から流れ出した水は生活排水と混じり合いながら稲の養分になっていた。

用水路の底には、常に薄緑の藻のようなものがびっしりと生えていた。たぶん細菌の固まりだと思う。藻ならば葉緑素で光合成して水の汚れを分解し酸素を発生させ魚を養うのだが、植物ならぬ細菌は、赤潮と同じく酸素を使い果たし発酵しひたすら増殖する。

この場合は発酵ではなくて腐敗だな、と用水路を覗き込みながら思った。水が汚れすぎているから細菌しか生育できないし酸素が不足するから魚も住めない、だからますます水は汚れて嫌な臭いもひどくなるのだと、公害問題に詳しい科学者が教育テレビで言っていた。

汚れたのではなく汚したのだな、と覗き込む。小学校の通学路は用水路に沿っていて、毎朝毎夕その臭いを嗅ぐことになる。臭いは夏よりむしろ冬の方がひどい。夏は日差しが強く、植物性プランクトンが活動しやすくなるからだと、科学者は言った。確かに、日当たりのいいところだけは濃い緑に染まって、よく見ると小さな泡がびっしりついている。あれは酸素だ。田植えで水が多くなって汚れが薄くなるというのも一因だな、と覗き込む。

その用水路は、まさに「ドブ」だった。薄青緑のドブ。

その色は、鼻水にそっくりだった。昔なつかし青っ洟である。青っ洟が束になって、水の底でひらめいているのだ。部分的に血の色に赤いのは、たぶん糸ミミズだろう。鼻の中が爛れて血も出ているというわけだ。

池から出てすぐの用水路はまだましで、綺麗な藻が生えていて浅く、小さな鮒や泥鰌、川エビまでいたのでよく遊んだけれど、その鼻水ドブに足をつけたことはなかった。両脇に柵があったし深かったということもあるが、なにしろ、汚かった。

汚いのは、ドブのせいではない。汚しているのは誰か。私たちだ。工場の大規模排水だけが川や海を汚しているという時代ではもうなくて、急激な宅地化に全くついていかない下水道の整備こそが急務であると、誰かがテレビで言っていた。自然を守ろうという台詞があちこちで言われ出したのもこの頃で、森林の伐採で滅びていく動物の記録映画もよく放映されていた。

けれど、汚している当人達がどう思っているのか、私はテレビのこちら側にいたので、よく知っていた。父は、「野生動物なんていたって仕方ない」と言い、「こんな汚い水で作った米なんか食えるか」と言い、河口の工場群を見下ろしながら「人間の力は凄いなあ」と言った。

私が工場群になる前の白浜を覚えていることを父は知らないし、直接水を汚しているのは父ではなくて専業主婦の母だから関係ないし、父は公務員だから自然なんて関係ないのだろう。もとより、すべての事柄に関係のない人なのだろうな、と、もっと関係ない小学生の私は思った。そんな父が教育関係の職に就いていることも、学校の先生の顔を思い浮かべれば、そんなに不思議なことではなかった。

だから、このドブは永遠に綺麗にならないのだろうな、と思いながら幼稚園も含めての七年間を通いとおした。私は永遠に小学生ではないというのが、せめてもの救いだった。

でも、ただ一度、ドブのすぐそばまで近づいたことがあった。

私には妹が二人いて、上の妹とは一緒に小学校に通った。妹のランドセルには前の日に買って貰った人形がぶら下がっていた。人形は毛糸のおくるみを着せられたプラスチック製の赤ん坊で、広い額に目を閉じて両手を胸の上で握りしめ、眠っているのか起きているのか、妙に大人びた笑みを浮かべていた。

毛糸のおくるみは柔らかくて、人形をすぐに取り出すことができた。おくるみの上部に紐がついていて、それでランドセルにつながっているのだが、歩いていると人形は浮いてきてしまう。

何がきっかけだったのかは、よく覚えていない。妹が、勢いよくランドセルを振り回した。遠心力の付いた人形はぽーんと見事に飛んで、ドブに落ちた。

ドブには、法面の重みを支えるためだろう、細いコンクリートの柱が何本も渡してある。落ちた所のすぐ手前にも、それがあった。あれに乗ればいい。私は自分のランドセルを放り出し、柱を渡って手を伸ばし、浮いたまま流れてくる人形をつかんだ。

濡れた人形はガウンでぬぐって、妹に手渡した。もう飛ばへんように、ちゃんとランドセルの中にしまっておきな。妹は泣きながら頷いた。私の姉としての株は、またまた高騰してしまった。

私には、勝算があった。柱は私の足が縦にちょうど乗るくらいの太さで、水量も多かったので水面までの距離はほとんどなかった。たとえ水の中に落ちても、柱に掴まることができる。駅に向かう人通りの多い道だ、きっと誰かが助けてくれるだろう。学校も一日正々堂々と休めるし。もしかしたら、救急車に乗せられるかも知れない、そうなったら、結構格好いい。

勝算がなければ、そんなことはしない。もっと水が少なくて、渡る橋がなければ、体重が40キロ以下でなければ、あきらめただろう。汚いと思いながらも毎日眺めていなければ、水の流れていく方向も知らなかっただろう。

大久保という駅を知っている。最近マンション群ができて昇降客が増えたが、小さな駅であることに変わりはない。けれど新大久保といえば東京のどまんなか。新宿のすぐ近くだ。新宿は日本一の昇降客を有する駅だ。その駅の、秒単位で流れてくる電車の川に飛び込んで、見も知らない、しかもおそらく自分の過失で転落した大人の男性を助けることは、私にはできない。

けれど、彼らには勝算があったのだ。きっと。助けられると思ったのだ。きっと。小学生の私が手のひらに入るほどの人形を救えると思ったように、二人の男性は、線路に落ちた男性を救えると思ったのだ。

彼らは死のうと思って降りたのではない。生きようと思って降りたのだ。一緒に生きようと思って。三人は、一緒に上がってくるはずだった。そして、彼らを引っ張り上げる人の手が、そこにはあるはずだった。

退避する場所がありさえすれば、あんなことにはならなかった。隣国とはいえ異国の地で、前途ある学生が命を落とすことはなかった。カメラマンだったという男性とともに、三人は一緒に上がってくるはずだった。酒に酔って落ちたという男性は、私と同世代だった。おそらくその男性は厳重な注意を受けて、けれど次の日には仕事をしているはずだった。たぶん、ホームで酔うなどということは二度としなくなる、はずだった。

もしかしたら死ぬかも知れない、と考える時間はなかったと思う。考えなかったと思う。あれは自己犠牲ではなく、純粋な勇気からの行動だったから。私の勇気は小さかったが、今そのドブ(あいかわらず汚い)を見下ろすと、やはり、高い、と思う。

そして、私が考えるべきは、次に行うべきは。彼らと同じ行動をとることではない。あれからよく利用する駅では待避所があるかどうか確認するようにはなったが、彼らのような大きな勇気を奮わなければならない状況には、やはり、立ちたくない。

私が行うべきは。ホームに落ちないことだ。落ちるほど酔わないことだ。

彼らに報いるために私ができることは、これくらいしかない。

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