シール


三歳の女の子が餓死していたアパートの鉄の扉には、ディズニーのキャラクターのシールが貼ってあった。

ここには子供がいます、ここで幸せに暮らしているんですよ。

けど、実際には。

私は、子供が大嫌いだ。自分が子供の時から嫌いだったから、筋金入りである。どのくらい嫌いかというと、子供が近づくと匂いで分かるのである。あっこれは幼稚園。これはプールに行って帰ってきた小学生。うわあ中学生の団体だ。逃げろ。

勘のいい敵は子供嫌い独特の殺気を感じ取るらしく、エレベーターなどで一緒になると、固まって私の視線を避ける。きっと親のしつけが厳しいのだろう。ランドセルを盾にしながら「何階ですかっ」と、攻撃魔法をかけるかのように叫ぶ。だから私も、「同じです、有り難う」と、防御系の魔法でくそ丁寧に返答する。彼は、階数のボタンから即座に指を下ろして「閉」を押す。なんと紳士的なことに、降りるときは開くボタンを押していてくれるので、深々と会釈してやったりする。かちかちになって必死に「開」のボタンを押している真剣な表情をちらっと見てしまったりすると、もう、笑うしかない。笑われたのが屈辱的なのか、それとも自分の紳士的さ加減が恥ずかしいのか、ランドセルを背中で振り回しながら走り去っていく。

泣いている子供がいる。まるでこの世の終わりが来たかのように、マンションの入り口の階段のところで声を限りに泣いている。真新しい肺に、空気を吸い込めるだけ吸い込んで、吐き出して。体は小さいくせに、また大きな声が出るのだ、これが。小鳥みたいだ。彼(あるいは彼女)は私と視線が合うと、ふっと泣きやむ。なんだこいつ、何を珍しそうに見ているんだろう。あんまり見かけない奴だな。どこのどいつだろう。ママの友達でもなさそうだしな。受付のお姉さんにしちゃ汚い格好だし。受付のカウンターにいっぺん登ってみたいけど、この間登ろうとしたらママにお尻叩かれたっけ。ママが見てないときに登るべきだよな。あ。あ、そういや、何してたっけ。泣いてたんだっけ。えーと、なんで泣いてたっけ。えーと、えーと。まあいいや、とりあえずもう一回泣いておこう。

放し飼いの子供がいる。ちょっと離れたところに、たぶん製造元の女性。この間まで母親のお腹にいたような大きさの、けれど妙に大人びた雰囲気。彼(または彼女)は左手を挙げたまま、ふっと私のそばを通り過ぎた。指先が私の右手の先に触れる。それはそれは柔らかく透き通った感触。彼(または彼女)は、そのまま何事もなかったような顔をして、母親に手を引かれて去っていった。

少しずつ確実に、それぞれのやり方で彼らは社会性を身につけていく。

けれど、誰も彼もがそうではない。親の社会性が低い場合もある。そして、親から離れて生きていけるまで成長できなかったら、社会性を身につけるまで生きていられなかったら、子供でさえいられない。

児童虐待防止法が施行されるより前、こんなことがあった。


クリーニング屋の店先に、五歳の男の子が現れた。

服を預けに来たわけではない。何となく人恋しくて、彼はここを訪れたのだ。

店員の女性は、しばらく彼の存在に気づかなかった。カウンターの縁から静かに覗いている丸い頭に、彼女は条件反射で目を細め、そしてすぐに眉をひそめた。パートと家事を見事に両立している彼女は子供を二人持っていて、だから彼の頭が妙な形に歪んでいることに、すぐに気づいた。しかも、皮膚の色が悪く、夏だというのに彼の唇はかさかさに乾いていた。

風邪でも引いてるのかしら。彼女は思い、そしていつもそうしているように、カウンターにおいてある瓶から一つ、飴を取り出して差し出した。

小さな手。やや小さ過ぎる手。

でも、男の子はこんなものよ。うちの子も、上の子は生まれたときから小さくて、熱ばかり出して心配させたものだけれど、今ではまるで一人で大きくなったような顔をして・・・

ありがとう。彼は言った。小さい、けれどはっきりした声で。

そうよ、小さいうちは、うちの子も可愛かったわ。何かといえばすぐ泣いて、私の後ろに隠れていたものだった。男の子なんてつまらない、いくら苦労して大きくしてもいずれ出ていってしまうのだし、ああ、女の子も産んでおけば良かった。女の子ならいろいろ服を着せたりお化粧させたりする楽しみもあったものを。

ありがとう。彼は、今度は悲鳴に近いような声で言った。彼女と目が合う。ああ、やっぱりこの子は少し痩せている。

彼女はちょっと考えてから、もう一つ飴を手渡した。棒の付いた、赤くて大きいやつ。

ありがとう。

はーい、また来てね。彼女は半分背中を見せながら、答えた。

それが、最後だった。

彼は、飴だけでは足りなくて、冷蔵庫に入っていた残り物のカレーに手を出した。ひどくお腹が空いていたので、急いで手づかみで食べてしまった。気づいた時には、シャツの前がすっかり黄色く汚れていた。慌ててシャツを脱いだけれど、口に付いていたカレーがシャツの襟に擦られて顔中に塗りつけられてしまった。

そこへ、妹の腕を引きずりながら母親が帰ってきた。

その日の夕食にするつもりだったカレーが彼の顔に付いているのを見て、母親は彼が飢えていたのではなくふざけていたのだと思った。

いつものように、母親は彼を殴った。彼は、母親の気が済むまでじっと我慢していた。余計な声は出さない方がいい、彼は経験上、泣くと母親が余計に興奮するのを知っていた。

ごめんなさい、ごめんなさい。

彼は、弁解することを知らなかった。しようにも、するための言葉を持たなかった。

ごめんなさい、ごめんなさい。けれど、その日の母親は執拗だった。

やがて父親が戻ってきた。子供を殴るのに夢中になって夫の夕飯の支度をするのを忘れていた言い訳の代わりに母親は、彼が勝手に冷蔵庫のカレーを食べたと言いつけた。

父親もいつものように、彼を蹴った。父親は、母親よりはるかに根気があるので、彼は両手で頭を抱えた。すると言葉が出なくなる。

どうして謝らないんだ? うん?

父親は、ねっとりと優しい声で言いながら、無防備になった彼の柔らかい腹を、また蹴った。苦いものがこみ上げてきて、彼は唸った。

黙ってないで、きちんと謝りなさい、ほら。

ごめんなさい。

けれど、吐いたものが喉にも鼻にも詰まり、彼は息をすることもできなくなっていた。もともと弱い呼吸がますます弱くなる。

強情だな、こいつ。楽しそうに父親は言って、動かなくなった頭を、今度は踏みつけた。

クリーニングのラベルを整理しながら、彼女は考えていた。

あんなに可愛い子だったのに、なんていうことでしょう。自分の子供を手に掛けるなんて、私の時代には考えられないことだった。親は自分の命を削ってでも、自分の子供を育てたものだった。今の若い母親ときたら、遊ぶことばかり考えて子供のことなんて一つも思っていない。そんな子を嫁にもらったりしたら、一生の不覚だわ。これからは、もっと学校でも命の大切さについて教えてもらわなきゃ。

ラベルの数字の順番の通りにハンガーをきちんと並べながら、彼女は少し思った。

でも、ワイドショーでは、躾のためだったって言ってた。そうね、この頃の小さい子は挨拶もまともにできないから。それで母親も少し苛立ったのかも知れない。少しくらい手が出ても、躾のためなら仕方ないこともあるものね。

彼女は覚えていない。

彼は、礼を言うことができたということを。

彼は、大きな飴を貰えて、本当に嬉しかったのだ。だから、心を込めて礼を言ったのだ。誰に強制されたわけでもなく。礼を言うことも謝ることも知っていた彼は、それでも許されなかったのだ。


いや、こんなことがあった、というのは正確ではない。こんなだったのだろう、と、私は想像したのだ。

実際にニュースで流れたのは、五歳の男の子が近所のクリーニング屋で時々見かけられていたことと、飴を貰ったということ、カレーを勝手に食べたからというだけで両親に殴られて死んだ、ということだけだ。


お母さんと呼べるまで生きていられない子供が、この世界には何万何十万といるという。けれど、感謝の気持ちを持てるまで育ち抜いた子が、世界で一番豊かな国で、飢えて死んでいく。

そして、自分の子を死なせた親には、山ほどの言い訳が準備されている。

本当は親は子供を愛するはず。本当は親は子供を守るはず。親なのだからそうであるはず。親だから子供をしつけた。それは愛情から来たこと。愛情があるからこそ殴るのであって、経験のない若い親は、それがつい行き過ぎることもある。

けれど実は、親は子供を愛しているのではなく、自分が親だということを愛している。

子供さえいれば、誰でも親になれる。生殖能力さえあれば、誰でもなれる。まさに、子供の存在があってこその親で、子供がいなくなればたちまち親ではいられなくなる。そういう自分の立場の脆さを無意識下で自覚している親は、子供がいつか自分だけのものでなくなることへの覚悟もできている。子供が子供らしくなくなり、世渡りがうまくなっていくこと、つまり成長していくことは、親としての自分の存在が危うくなることでもあって、猛烈に寂しいことではあるけれど、それを甘受できるだけの社会性をもまた、持ち合わせている。

けれど、ただ産んだだけ産ませただけ、たまたま親になってしまったけれど、親であるということの居心地の良さに気づいてしまったという生物学的な親は、それで自分は社会的地位を手に入れたのだと、たちまちに思いこむ。


思いこむのが、悪いわけではない。私の友人も、夢中になって二人の息子を育てていて、話題と言えば子供のことばかりだ。けれど、それが悪いわけではない。毎日毎日、学校から小さな事件や問題を持ち帰ってくる子供たちは、そのまま社会に開かれた窓なのだから。


そういう親は、とにもかくにも親になった、という自覚が、子供を育てなければならない、という自覚よりはるかに強い。

親になった、親になった。

人の親になったのだ。自分もやっと一人前になった。もう自分は子供ではなくなったのだ。もう何も怖くない。社会も認めるきちんとした親なのだから、子供を育てるためには何をしてもいい。だから、何をしても他人に文句は言わせない。

と、彼らの中では筋の通った決心をする。

生物学的な親は誰よりも自分を愛しているので、親でいることの煩わしさ、たとえば授乳だのおむつ換えだの夜泣きだの疳の虫だのに、すぐに飽きてしまう。そしてすぐさま親は、育てることをやめる。

けれど子供がいる限り親は親として存在できるので、子供を手放すことはしない。手放してしまったら終わりだ。そしたら自分は親ではなくなるから、大きな口も叩けなくなる。子供がいて大変なのよという言い訳もできなくなる。子供さんがいて大変ねとも言ってもらえなくなる。

だから親は、普段はサンドバック代わりにしていても、舌を噛みそうな名前で呼び、ビデオを撮り、綺麗な服を着せ、抱きかかえてあちこちに連れていく。

ほら、私たちは親です。こんなに大事にしています。

だから親は、子供を盾にして、子供の傘の下に入って、子供に守られて、どうにかこうにか、親でいる。


盾になる子供は、もう子供ではない。三歳で飢えて死んだ女の子は、一目では読めない難しい名前を持っていた。その名前には、もう×がついているだろう。たった5キロにしかなれなかった彼女は、自分の名前を知っていただろうか。

もう一度言うが、私は子供が嫌いだ。けれど、子供にも、もちろん大人にもなれなかった小さな人々のことを思うと、喉の奥がじりじりと焼ける。もしかしたら、私にエレベーターのボタンを押してくれたかも知れない人々のこと。

そして、考える。もし、少しでも彼らが虐待されていると感じたら。誘拐罪に問われてもいい、彼らを守ろう。子供は嫌いだけれど、なんしか嫌いだけれど、とにかく嫌いだけれど、守ろう。とりあえず暴力と屈辱から引き離そう。それから先のことは、それから考えよう。

そして、早く大人になって貰おう。自分の名前を覚えて貰おう。子供嫌いの偏屈な人にも、優しくしてやれる人に、なって貰おう。

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